2016年09月23日

林家舞楽

2016年9月18日(日)  林家舞楽

「林家舞楽(はやしけぶがく)」は、「谷地八幡宮」の宮司である「林家(はやしけ)」に、一子相伝で伝わる舞楽です。

約1,200年の伝統を持ち、「宮中舞楽」や「四天王寺舞楽」、「南都楽所(なんとらくそ)舞楽」と並ぶ日本四大舞楽の一つとされています。

昔は山形各地で舞楽が行われていましたが、現在は「谷地八幡宮」の秋の例祭に同社境内で、また寒河江市の「慈恩(じおん)寺」の春の法会で舞われる他に、数年に一度催される山形市山寺「立石(りっしゃく)寺」臨時法要にも奉納されています。

聖徳太子は四天王寺に渡来の楽人を配属しその伝習に当たらせ、楽人には、「林」、「薗」、「岡」、「東儀」の姓を与え、代々世襲の家業としましたが、その林氏の一派が「林家」です。

「舞楽由緒」によると林家の祖は、貞観2(860)年慈覚大師円仁の「立石寺」開山に随従して東北に下って舞楽を奉仕し、この後、慈恩寺や熊野神社(寒河江市平塩)、谷地八幡宮の舞楽を司り、谷地に移ったのは江戸時代初期と言われています。

慈恩寺と立石寺は、東北で最大の古刹で、東北に典雅な舞楽をもたらしたのは、この二大寺の存在にあります。

「林家舞楽」は早い時期に地方に下ったため、平安中期以降の「楽制改革(日本化)」の影響が少なく、シルクロードの面影をより多く留めていると言われています。

雨が降り続いていたので心配していたのですが、昼頃には、予定していた石舞台から、拝殿内部にある舞台に場所を移して行うという発表がありました。

室内の舞台も立派なものですが、見物者数が限られるので心配したのですが、「盗塁」の要領でササッと前に進み、観やすい場所を確保しました。

伝承曲目は、「1.燕歩(えんぶ)」、「2.三台(さんだい)」、「3.散手(さんじゅ)」、「4.太平楽(たいへいらく)」、「5.安摩(あま)」、「6.二ノ舞(にのまい)」、「7.還城楽(げんじょうらく)」、「8.抜頭(ばとう)」、「9.陵王(りょうおう)」、「10.納蘇利(なそり)」の10曲です。

すべて林家に伝承されており林家が中心で舞うものですが、「4.太平楽」と、童舞である「7.還城楽(げんじょうらく)」、「8.抜頭」は、林家以外の人が舞うそうです。

1.燕歩;大人による1人舞で、最初に舞われます。

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鉾をもって舞う悪魔調伏の舞いですが、3節からなっていて、初めは天神、中は地祇、最後は祖先を祈ります。

2.三台:大人による1人舞で、則天武后の作と伝えられる優雅な舞です。

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現在では当地の「林家」だけに伝わるのみで、中央の舞楽には遺されておらず、唐の時代にあった小説「遊仙窟(ゆうせんくつ)」の、神仙の世界の艶事を舞いにしたものと言われています。

3.散手:鼻高の赤い面を着けて、鉾を持って舞う大人1人の舞です。。

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「龍冑(たつかぶと)」を被り、太刀を腰に、手には鉾をもって舞われ、勇壮活発な武将を思わせます。

4.太平楽:日本の甲冑を着けた大人による4人の舞で、舞人は慈恩寺の方々です。

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後半は納めていた太刀を引き抜きますが、真剣だそうなので、怪我をしない様に”真剣に”舞っておられました。

5.安摩:「雑面(ぞうめん)」(蔵面、造面とも)という四角い紙の面をつけて、大人1人によって舞われます。

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「チャンパー(Champa)」(今のヴェトナム。中国による呼び名は林邑。)の僧仏哲が伝えたものを、仁明天皇の時代(833 -850年)に「大戸清上おおどのきよかみ)」が改作したもので、次に舞われる「二の舞」とは一対になっています。

6.二の舞:翁と媼による大人2人の舞で、翁は「咲面(さきめん)」(「笑面」(えみめん)とも)、媼は「醜面(しゅうめん)」(「腫面(はれめん)」とも)をつけます。

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天竺(インド)地方の老夫婦が「安摩」を真似て舞おうとするも上手く舞えず滑稽な動きになり、真似て舞うたというので「二の舞」と言われますが、当地では「ジとバの舞」とも言われています。

7.還城楽;面を着けない童の1人舞です。

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舞台の中央に置かれた蛇を持ちあげ、「桴(ばち)」を持って舞いますが、蛇を好んで食する胡国の人が、蛇を見つけて喜ぶ姿を表現したものと言われます。

小学校4年生だそうです。

8.抜頭:童による、花冠を被った可憐な舞で、一見では「還城楽」と似ています。

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「枕草子」には、「抜頭は髪ふりあげたるまみ、うとましけれど楽しと面白し」とあるそうです。

慈恩寺では継承されていませんが、林家では何れも花冠を着け、稚児舞として受け継がれています。

9.陵王:大人1人による、華麗に動く「走り舞(はしりまい)」です。

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北斎の蘭陵王「高長恭(こう ちょうきょう」(541〜573年)は、戦場では恐ろしげな仮面を被って美貌を隠していたと言われますが、その勇姿を称えた舞いです。

10.納蘇利:大人による1人舞ですが、2人の走り舞が多いそうです。

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右手に「桴(ばち)」を持って舞いますが、雌雄の竜が楽しげに舞う様子を表現したものと伝えられています。

楽器は嘗ては3管3鼓が揃っていたそうですが、現在は「龍笛」と「太鼓」、「鉦鼓」の三種のみで、太鼓の縁を打って「羯鼓」の代替にしています。

また舞楽の開始前には楽器のみの「チャクランジョウ」、終了後には「エコウガク」という奏楽がありました。

17時過ぎに山形を経って、高速道路を80qクルーズして、食事も挟んでゆっくり帰ったものの、0時過ぎには船橋に帰着しました。

今回の船橋・坂戸・山形・船橋、約1,000qのトリップの燃費が、19.7q/lまで伸びたので、一応満足してます。



2016年09月22日

谷地八幡宮(2)

2016年9月17日(土)  谷地八幡宮(2)

慈恩寺から河北町谷地に移動して、神社に近い「どんがホール」に駐車出来ました。

「奴(やっこ)巡演」を観ようと「巡行路」を辿りましたが見つけられなかったので、仕方なく「吾妻屋」という蕎麦屋で昼食にし、当地名物の「肉そば」を戴きました。

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昼過ぎには奴行列が神社近くに戻ってきて、大辻や六供といった各町の「祭典事務所」に挨拶しながら、随所で振り姿を披露していきます。

最大のものは30sもあるという重い「毛槍(けやり)」を振り回し、動き出すときにシューッという声を出したり、独特の「掛け歌」を歌いながら歩く姿は、沿道の観衆の喝采を浴びていました。

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参道では、14:30頃に還御してきた神輿の露払いを務めました。

17時近くに舞楽が終わって駐車場に向かっていると、大きな音響が聞こえてきたので、近くに行ってみると、荒北(荒町北)若の「囃子(はやし)屋台」が巡演していました。

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なんとトラックに屋台を乗っけて、屋台の舞台ではAKB48の曲とか歌謡曲が歌われていて、三味線はあるものの、笛・太鼓といった囃子はありません

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2016年09月21日

慈恩寺

2016年9月18日(日)  慈恩寺

朝、外から太鼓の大きな音が聞こえてきたので外へ出てみると、「寒河江まつり」の太鼓車が通り過ぎて行きました。

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谷地へ行く前に、「慈恩宗瑞宝山本山慈恩(じおん)寺」(山形県寒河江市)を訪ねました。

慈恩寺は、「伽藍記」によれば、仁平年間(1151-1153年)に「法相(ほっそう)宗興福寺」の願西上人が本願となって来山したとあるそうです。

その後法相宗以外にも天台宗や真言宗、時宗と、多くの宗派が併存しましたが、寛永19(1642)年に天台・真言両宗兼学となりました

戦後は宗教法人として独立し、「本山慈恩寺」を名乗り、「慈恩宗」という宗派となって現在に至っています。

毎年5月5日に行われる法会「一切経会(いっさいきょうえ)」での「林家舞楽(はやしけぶがく)」奉奏(8曲)は、「谷地八幡宮」と同様に、「立石(りっしゃく)寺」(山形市)から伝わったものです。



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2016年09月20日

谷地八幡宮(1)

2016年9月17日(土)  谷地八幡宮(1)

「谷地八幡宮(やちはちまんぐう)」は、山形県西村山郡河北(かほく)町にあり、旧社格は県社です。

坂戸市を昼過ぎに出て、18:30頃には着き、少し離れた「町民体育館」に駐車しました。

毎年、敬老の日を含む土曜日から月曜日にかけて行われる「谷地どんが祭り」の中で、「例祭」に奉納される「林家舞楽(はやしけぶがく)」は、「宮中舞楽」、「四天王寺舞楽」、「南都楽所(なんとらくそ)舞楽」と並ぶ、四大舞楽の一つとされています。

「どんが」の由来は、舞楽の音が町内の人達には「オヒャロドガン」と聞こえたそうで、嘗ては谷地八幡宮の例祭は「オヒャロドガンの祭り」と呼ばれていたそうです。

「オヒャロ」は笛の音色を、また「ドガン」は太鼓の音を、表しているとか言われています。

40年ほど前に祭りの愛称を決めるに当って、「オヒャロドガン」をもじって「谷地どんがまつり」とされました。

雨が降っていて、19:50から予定されていた「夜遊(やゆう)の舞楽」(2曲)が中止になったので、翌日14:45〜16:45に予定されている「谷地舞楽奉奏(ほうそう)」(10曲)は大丈夫かいなと、心配になりました。

高さが約9mある「提灯屋台」が、拝殿前の左右や、街中にも置かれています。

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提灯屋台は、豊作と風水害除けを祈願した、210日の前日の宮詣りや翌日の神幸祭の際に、300年ほど前から使われていたもので、文献への初出は享保6(1721)年です。

氏子一同が屋台を担いで谷地八幡宮等に参宮し、往復には笛や太鼓を奏でました。

当初は谷地8ヶ村から一台ずつ出されましたが次第に数が増え、踊り屋台も加わるようになり、盛大なものになりました。

しかし明治43(1910)年に町内に電線が張り巡らされてからは屋台の巡行が不可能となったので、行事は中止になりましたが、昭和38(1963)年に復活しました。

「紀の代 寿司本店」で夕食にしましたが、飲めないのが辛い所です。

19:30からは「ごらんじょう詣り」があり、20:20から「神輿渡御」が始まったので、寒河江(さがえ)市の温泉旅館まで走って、疲れた体を癒しました。



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2016年09月19日

湘南ドリームズ戦

2016年9月17日(土)  湘南ドリームズ戦

「坂戸市民総合運動公園」で「第12回坂戸市長旗関東還暦軟式野球大会」に出場し、10:30から「湘南ドリームズ」(神奈川県藤沢市)と戦いました。

連休の初日で高速道路の渋滞が予想されたので、前日に「埼玉の酔仙」さん宅に泊めていただきました。

8番センターで先発しました。

第1打席は2回表、ヒットエンドランのサインが出たので、内角低めの打ちにくい球に何とか喰らいついてバットを当てて、ボテボテの3塁ゴロを放ち、3塁走者を本塁に迎え入れて打点1を記録しました。

第2打席は、大きくリードされた4回表、センター前に落ちる「テキサスリーガー(Texas leaguer)」(テキサスヒット、ポテンヒット)を放ち、2塁走者を迎え入れ、またもや打点1を挙げました。

試合は5回コールドの3-12で敗れましたが、得点3のうち2打点を稼いだのは、打率をアップさせるとともに、得点圏に走者を置いた時のしぶとさを発揮できたので、喜ばしいことです。

恒例の参加賞として、鶏卵20個を戴きました。

試合後は、「林家舞楽」を鑑賞するために、圏央道や東北道、山形道、東北中央道を経由して、山形県へ向かいました。



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2016年09月04日

豊原から帰国

2016年8月28日(日)  豊原から帰国 

7:00の気温は8.6℃まで下がり、秋の訪れが迫ってきているようです。

朝散は、「樺太中学址」や「知事公舎址」まで足を延ばしました。

11:30チェックアウトなので、朝散の後に、ゆっくりと朝食を摂りました。

食後部屋でNHKTVの海外放送を見ていたら、「日本とサハリン 引き裂かれた親子」という7時のニュースの特集番組を放映していました。

樺太を観て回り、「樺太戦とサハリン捕虜の記」(丸山重著)などを読んだこともあり、特別の感慨を覚えました。

豊原13:40発、ヤクーツク航空R3 9949便で帰途に着き、13:50成田に帰着しました。

帰り便は、日本人観光客や、ハバロフスクでの3市対抗バレイボール戦を終えた兵庫県の女子高校生などがいて、ほぼ満席でした。

黒パンやサラダ、ハム、菓子、コーヒーの、ロシア製ランチボックスを昼食にしました。



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2016年09月03日

大泊

2016年8月27日(土)  大泊

6:00の気温は10.6℃と冷え込んできましたが、日中の日差しは未だに強烈です。

朝散は、豊原公園を南に突っ切って、「樺太神社址」と「護国神社址」を訪ねましたが、何も残っていません。

犬に散歩をさせている者は多いのですが、大きな犬なのに、対面歩行者への気配りは全くなく、こっちが立ち止まらされて、犬と散歩をさせている者を睨み付ける状態です。

「大泊(おおどまり)」は、今では「コルサコフ」とも呼ばれており、サハリンの南の玄関口で、人口は約3万3千人(2014年)あり、豊原、真岡に次ぐ、樺太第3の都市です。

大泊は樺太最大の不凍港であり、稚内と大泊・西能登呂岬間の距離は約42kmあり、「稚泊連絡船」が大正12(1923)年に就航しています。

1790年に「松浦藩交易所」が開かれて以降、日本とは関係の深い所です。

1905年日露戦争の時に建てられた「遠征軍上陸記念碑」は、天ガス工場の見える丘の上に、土台だけが「亜庭湾(あにわわん)」に向かって立っており、上部に載っていた碑は砲弾に折られたらしく、近くに転がっています.

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「歴史郷土博物館」や「北海道拓殖銀行大泊支店址」、「王子製紙大泊工場址」を見学しましたが、工場は大正3(1914)年に建設された、王子製紙最初の工場です。

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豊原に戻っての昼食では豚肉のシャシリクを、大泊を出た頃からワインを既に飲み始めていたので、ロシアの生ビで戴きました。

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冬季はスキー場にもなる「旭ヶ丘展望台」からは、豊原市街が一望のもとに眺められました。

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「サハリン州郷土博物館」は、日本統治時代の「樺太庁」の立派な建物を使用しています。

日ソ国境線にあった「天1号標石」が展示されていました。

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現在では屋内にある「自由市場」という朝鮮系の店が犇めき合う所で、「昆布入りのチョコレート」を、主に野球部仲間への土産に買いました。

現代的なシティショッピングモールでは、土産用に「塩入のチョコレート」を買い足し、紅白のクリミアワイン(各234ルーブル)や「腹面の柄が羆で、背面が樺太地図のTシャツ」を買いました。

ホテルでの夕食のメインディッシュは樺太鱒のソテ−でしたが、400ルーブルのアサヒスーパードライしか置いてないと言うので、飲むのは止めました。

22:00の気温は13.6℃でした。



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2016年09月02日

敷香、白浦、 落合、栄浜

2016年8月26日(金)  敷香、白浦、 落合、栄浜   

6:00の気温は15.3℃で、雨が強く降っていましたが、朝食の後頃には上がったので、食後にホテル周辺の街路を朝散しました。

自動車が横断歩道の手前でピタッと止まる点は、大いに評価すべきです。

敷香には、「オタスの杜」という先住民集落があります。

昭和初期に先住民指定居住地となり、「ウィルタ((Uilta)族」や「ニヴフ(Nivkh)族」、「ウリチ(Ul'chi)族」、「エヴェンキ(Evenki)族」、「ヤクート(Yakut)族」等の諸民族が集められました。

昭和5(1930)年7月には「オタス土人教育所」が建設され、昭和11(1936)年には「オタス神社」が建造されました。

先住民に対しては日本語教育等が行われましたが、アイヌ以外の先住民族には日本国籍は与えられませんでした。

「幌内(ポロナイ)川」河口にある「佐知(さち)」(「ヌージヌイ島」)は、日本時代にオタスの杜と同じく、先住民を住まわせて観光地にしていました。

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先住民は戦時中は日本軍に徴用され、ソ連軍にスパイと見做されて、戦争の犠牲になりました。

現在では先住民は、ライセンスなしで漁業を行うことが認められていますが、島は「ダーチャ」(菜園付き別荘)として使われています。

敷香には「横綱大鵬の銅像」が、生家のあった場所に、2014年に妻の出身地である秋田県人会によって、建立されています。

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オホーツク海を左手に眺めながら、樺太鉄道の線路と何度も交差しながら、南下を続けました。

「知取(しりとり)」(豊原から213km)の町は、1892年に「セルトラ」という名で始まり、「知取」を経て、今では「マカロフ」とも呼ばれています。

「マカロフ創建100周年記念碑」には、町の基礎を造った日本人と朝鮮人に敬意を表して、日韓露の3か国語で書かれています。

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ここは、日ソの停戦協定が、8月23日に締結された所で、「富士製紙」(王子製紙が吸収)知取工場がありました。

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駅前のスーパーで、クリミアワインを285ルーブルで買いました。

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「白浦(しらうら)」(豊原の北108km)は、今では「ブズモーリエ」とも呼ばれており、蟹の名産地として有名なので、駅周辺の露店でも売られています。

昼食では花咲蟹にあり付けたので、クリミアワインで美味しくいただきました。

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1940年に建立された「白浦神社」は海岸縁の小高い丘に遠望され、鳥居だけが丘の中腹に残っていました。

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「栄浜(さかえはま)」(豊原から約50km)は、今は「スタロドゥプスコエ」とも呼ばれ、、人口は約2千人(2013年)です。

海岸の砂浜では琥珀が採れることで有名で、私は当初あほらしと思ってたものの、最初に難なく大きいのを拾って仕舞ったことから闘争心が生じ嵌ってしまいましたが、ある女性の捕獲物の質量ともに圧倒されたので、打ちひしがれてしまいました。

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「落合(おちあい)」(豊原の北43q)は、今は「ドリンスク」とも呼ばれ、北緯47.3度に位置し、人口は約1万2千人(2014年)です。

「王子製紙落合工場」の跡が残っています。

豊原に戻り、樺太で唯一の日本食レストランで、松花堂弁当や抹茶ムースを戴きました。

22:00の気温は12.7℃で、いよいよ秋の訪れでしょうか。



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2016年09月01日

落石、気屯、敷香

2016年8月25(木)  落石、気屯、敷香

「落石」の人口は約1万人(2014年)で、北緯51度にあり、6:00の気温は18.5℃でした。

朝シャンの後、朝散に出掛けました。

戦勝記念碑や戦没者名簿銘板があり、この辺りが小高い丘にあることも分りました。

「アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ」(1860〜1904年)は1890年に来島し、3ヶ月滞在して流刑囚の実態を調査して、「サハリン島」(1895年)を著わしました。

元囚人の「ランズブルグ氏邸」が、1990年から「チェーホフ博物館」になっています。

浜辺を歩いて、囚人が掘ったトンネルを抜けた先からは、「ジョン・ケル岬」と灯台が見られました。

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浜辺には大量の海藻が打ち上げられていて、地元の人たちが肥料にするために、「ゴミ袋」にせっせと詰め込んでいました。

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落石からティモフスクに戻り、更に130km南下して、「気屯(けとん)」(豊原から361km)を目指しました。

途中、北緯50度線には、幅10m、総延長133kmに亘り、「日ソ国境線」が敷かれていました。

「天測境界標石」が4つあり、第3標石が、豊原の「州立博物館」に展示されています。

ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して南樺太(日本領)に攻め入った「侵略記念碑」には、「ソ連軍は、古来のロシアの地である南サハリンを解放した」と刻まれています。

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この周辺は日ソの激戦地だったので、平成2(1990)年から遺骨収集がなされ、いくつもの慰霊碑が建てられています。

「日ソ平和友好の碑」は日本の遺族会の建てたもので、両国語で「尊い命は静かに眠れ 平和を願い あなたの死を心に刻む」とあります。

「気屯(けとん)」は今は「スミルヌイフ」とも呼ばれてますが、北緯49.75度にあり、国境からは南へ20km、豊原からは北へ361q、「敷香」(ポロナイスクとも)の北73qにあり、人口は約7千人 (2014年)です。

気屯では農家のゲストハウスを訪問し、家庭料理を御馳走になりました。

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気屯駅は日本時代の最北端の駅(「古屯(ことん)駅」(ポペジとも)は軍事路線駅)ですが、丁度古屯から気屯行きの1両のみの客車列車が入構して来ました。

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車掌の女性が美人なので、列車をもう少し綺麗にしてはどうかと思うのですが、言いすぎでしょうか?

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「敷香(しすか)」(豊原の北288km)は気屯の南73kmにあり、、北緯49.2度にあります。

今は「ポロナイスク」(アイヌ語の「大きな川」の意)とも呼ばれていて、人口は約1万5千人(2014年)です。

一人部屋の確保が不安とか、ソーラーなので湯が出るかどうか不安、とか言われていましたが、しっかりしたホテルで安心しました。

ホテルのレストランでは、地元民のお別れパーティや歌手によるライブが行われていたので、私も吉田山麓にあったGOGO喫茶「Cat's eye」を思い出して、一踊りしました。

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20:00の気温は、17.9℃でした。



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2016年08月31日

ティモフスク、 落石

2016年8月24日(水)  ティモフスク、 落石

6:30の気温は12.3℃と低く、雨が降っているので、朝散は出来ません。

ホテルの朝食は、ビュッフェスタイルの場合を除いて、簡単なものが多いです。

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博物館等には何処にでも展示されているヒグマがホテルにも置かれていたので、襲われている雰囲気の写真を一枚撮ってもらいました。

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「オハ(Oxa)」は、1923年の石油生産の開始と同時に始まりましたが、人口は約2万人強(2014年)あり、半数程度は石油生産業務に従事していると言われています。

サハリン州での石油・天ガス生産は、オホーツク海の海底油田へと移行しており、陸上での生産は殆ど行われていないようです。

先ずは、ノグリキまで引き返し、更に南下して「ティモフスク」を目指しました。

ノグリキまでの途中にある売店では、昨晩飲んだビールが80ルーブルで売られてましたから、ホテル価格としては、まあまあ妥当でしょう。

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「ティモフスク」(豊原の北491q)は、ノグリキの南約130km、日ソ国境線(北緯50度)の北約100kmにあり、北樺太の入口に当たる町で、1890年代に流刑地として始まりました。

ティモフスク駅の電光掲示板は、21℃を表示しています。

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ここからは西へ57km山中(峠の標高は約400m)を走って、間宮海峡に面した、西海岸の中心都市である「アレクサンドロフスク・サハリンスキー」に到りました。

「樺太・千島交換条約」(1875年)以前の日本名は「落石(おっちし)」で、南樺太が日本領時代には、「亜港(あこう)」と呼ばれていたこともあります。

ホテルのレセプションが4階にありエレヴェィターもないので、旅荷物を担ぎ上げるのが大変です。

夕食には、昆布の入った「極東スープ」や「ロールキャベツ」が出たので、ロシアビール(100ルーブル、5.4%)で戴きました。

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ロシアではレストランへの酒類の持ち込みは禁止ですが、ビールもホテルのレストランには置いてなく、近くの店での購入品なので、これ幸いに、ノグリキのレストランで昨日購入したクリミアワイン(600ルーブル、10.5〜12.5%)も戴きました。

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夕食の最中に停電になったので、懐中電灯が大活躍しました。

シャワーは懐中電灯の明かりが頼りですが、湯温調節が難しくて、水になったり熱湯になったりしたので、大いに苦労しました。

夜シャンは諦めて、朝シャンに回しました。

22:00の気温は、16.1℃でした。



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2016年08月30日

ノグリキ オハ 

2016年8月23日(火)  ノグリキ オハ 

寝ているうちに、北緯50度の日ソ国境線を越えて、北樺太へ入っていました。

窓外のツンドラ地帯の野原や樹林帯を見ながらボックスブレファスを食べ、洗顔と歯磨きを終えると、7:42に「ティモフスク駅」(豊原から491km)に着きました。

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木材の集散地に多くの乗客が降りた駅で写真をバチバチ撮っていたら、駅では派手に取り捲らない様にとの事前の注意を受けていたのを思い出しましたが、結果的には問題はありませんでした。

サハリン鉄道の終着駅「ノグリキ」(豊原から北へ613q)には10:00過ぎに着きましたが、北緯51.8度にあり、樺太島東北部のオホーツク海に面した町です。

列車は613kmを、停車時間を除くと11時間で走ったので、平均時速は55.7kmになります。

ノグリキの人口は約1万人ですが、この地方には、古アジア系「ニヴフ(Nivkh)族」(約900人)やツングース系「ウィルタ(Uilta)族」(約250人)等の、原住の少数民族が居住しています。

今では、石油・天然ガス開発の中心地として発展しています。

街には1954〜58年ごろに建造された木造の集合住宅が並んでいますが、政府が少数民族の為に建設したものだそうです。

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「北方民族博物館」では、ニヴフ族やウィルタ族に関する展示を見学しました。

ニブフ族の男が狩猟から戻ってこなかった時には熊になったと考えられていたので、森で子熊を捕えると成獣になるまで飼育し、成獣になると神に返すために「熊祭り」を執り行いました。

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「熊祭り」は1982年頃に法律が制定されて、中止に追い込まれたようです。

成獣に達した熊に餌をやるための木製の食器も展示されていました。

「フォークロア・ショウ」ではニヴフ族の歌と踊りが披露され、最後には我々も参加して一緒に踊りました。

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ニヴフ語による歌が老人女性によって歌われましたが、言語は消滅の方向にあるようです。

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ノグリキでの昼食では、牛肉のハンバーグをロシアビール(100ルーブル)で戴きました。

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ノグリキから更に北へ230kmにある「オハ(Oxa)」(豊原から北へ850q、ツングース系「エヴェンキ族」の言葉で、「悪い水」の意)へ、未舗装のがたがた道を移動しました。

小川にも「悪い水」が流れていて、黒い石油が湧いている様がよく分ります。

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「郷土史博物館オハ館」では、日本領事館にあった鐘や、少数民族に関する展示を観ました。

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ホテルの夕食では、魚のサラダキノコスープを、レストランにはビールがないので、部屋の冷蔵庫に入っていたロシアビール(95ルーブル)2本を持ってきて戴きました。

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オハは北緯53度にあるので、流石に空気は肌寒くて一枚余計に羽織りましたが、22:00の気温は14.3℃まで下がりました。



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2016年08月29日

真岡

2016年8月22日(月)  真岡 

6:30の気温は18℃ですから寒いというほどではなく、ずーっと一日、パラパラと降ったり止んだりの一日でした。

朝散は、ホテルの真ん前にある「豊原公園」を散歩しましたが、「王子ケ池」の中の島には、最近掘り出された石碑(昭和11年作製)が立てられていました。

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豊原から西へ93qにある、樺太西海岸の不凍港の町「真岡(もうか)」(「ホルムスク」とも)に向いました。

途中、「熊笹峠」(標高490m)を越えました。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本領である「南樺太」(北緯50度以南)を侵略したソ連軍は、8月20日に真岡に上陸し、真岡侵略後は豊原を目指して進軍しました。

それに対抗する日本軍との間に、8月20日から23日にかけて、熊笹峠を舞台に激戦が繰り広げられました。

日本の方向に向いた砲台を載せたソ連の戦勝記念碑が建てられた丘の付近には、真岡に向かって建てられた日本軍の「トーチカ(Tochka)」が、残っています。

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真岡は今は「ホルムスク」(「丘のある町」の意)と呼ばれ、人口は約3万人程で、北緯47度にある樺太第2の町ですが、そもそもはアイヌ語で「ハマナスの咲く丘」を意味する「モウカ}と呼ばれていました。

「王子製紙旧真岡工場」は、「ホルムスク製紙」としてソ連が継続して利用していましたが、今では廃墟となってます。

「市立博物館」では、アイヌに関する展示等を観ました。

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嘗てアイヌ民族は樺太南部に広く居住していましたが、その後多くは北海道へ移住させられました。

フェリーターミナルのカフェでの昼食では、ジャガイモの入った「ピロシキ(Piroshki)」や鶏の「シャシリク(串刺し)」、スープを戴きました。

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「夕日ケ丘」からは、「間宮林蔵」(1755〜1844)の名を冠した「間宮海峡」や、シベリヤ鉄道から連絡船で運ばれて来た列車の「台車交換場」が眺められます。

「レーニン広場」があり、樺太では嫌われずに、以降訪れた町の随所にレーニン像が残されていましたが、ここにも立っています。

「日ソ中立条約」を破棄してソ連軍が北樺太から侵入して来た時に、電話交換手9名が青酸カリを服毒して集団自決した「真岡郵便局」の跡地には、新しい郵便局が建てられていました。

豊原まで戻ったあと更に東南に向かい、オホーツク海の「海跡湖」である「富内(トゥナイチャ)湖」を訪れましたが、湖畔の町オホーツコエでは、蟹や海老が露店売りされていました

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豊原駅前にあるレーニン広場では、ロシア国旗制定記念日のショウを見て風船をもらい、駅前広場では、「D51-22蒸気機関車」を観ました。

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夕食では、オヒョウのグリル等を、ロシアビールの黒・茶生(各200ルーブル=約400円)で戴きました。

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VIPルームで休憩した後、22:30発、北樺太「ノグリキ」(613q北方)行きの「サハリン鉄道」夜行寝台列車に乗り込みました。

コンパートメントは左右に2段寝台がありますが、1人で一室を希望したので、荷物も下段に置けました。

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よく眠れた訳ではありませんが、翌朝起きた時には、そこそこ眠ったと見えて、気分はすっきりとはしていました。



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2016年08月28日

豊原 

2016年8月21日(日)  豊原 

成田発16:30「ヤクーチヤ航空(Yakutia Airlines)」R3 9950便で、樺太の「豊原(とよはら)」の「大沢飛行場」には、20:30(日本との時差は、今年3月以降に1時間から2時間に変更)に着きました。

ヤクーチヤ航空はロシア連邦サハ共和国のヤクーツクに本拠地を置き、今年5月から新規に就航しています。

機材は、「スホーイ・スーパージェット100-95」です。

司馬遼太郎「街道をゆく」で知った「オホーツク文化」の源流に触れたくて、「樺太」を訪ねます。

「樺太」には、原住民である、古アジア系「ニヴフ(Nivkh)族」や「ツングース(Tungus)」系「ウィルタ(Uilta)族」等の少数民族が居住しています。

「豊原」は北緯46.6度にあり、今は「ユジノ・サハリンスク」(南サハリンの町の意)と呼ばれていて、人口約20万人、ロシア共和国がサハリン州の州都にしています。

人口のうち約2万人は、戦前日本統治下にあった朝鮮半島から移住した朝鮮人が、約2万人は戦後北朝鮮から移住した朝鮮人が占めています。

約100人の定員に対して、乗客は20人程度で、ガラガラです。

機内食は、サーモンエスカベッシュやパストラミチキンの入ったボックスを、酒類なしで戴きました。

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豊原に降り立つと、涼しく心地よい気温です。

経度は東京地方と同程度なのに時差が2時間もあるので、薄暮というところですが、時刻は急に夜になった感じがします。

23:00の気温は、19.7℃でした。



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2016年08月20日

神宮

2016年8月16日(火)  神宮

スペイン村への途中、孫娘の希望を容れて「外宮(げくう)」を見学しました。

「せんぐう館」という立派な建物が新設されていたので、有意義な見学になりました。。

「外宮正殿原寸模型(東側面部)」は圧倒的な迫力があり、説明を聞いていると、色んな知識が一応は記憶に残ります。

休憩所から眺められる「勾玉(まがたま)池」の景観にも、心に安らぎを覚えます。

翌日には「内宮(ないくう)」を見学しましたが、駐車場には車が溢れていて、暑いさなかに遠くにある駐車場から「おはらい町」を歩いて、内宮へ到達しました。

「正宮(しょうぐう)」に参拝した後、孫娘が「風日祈宮(かざひのみのみや)」を見たいと言い出したので、疲れてましたが足を延ばしました。

「風日祈宮」に私は、2011年05月20日に投稿した「2011年5月14日(土)伊勢神宮「風日祈祭(かざひのみさい)」」の折に、来ています。

スペイン村からの帰りには「二見が浦」(鳥羽市)にも立ち寄りましたが、小学校の修学旅行の頃に比べてスッカリ観光地化した光景にがっかりしました。

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「黒潮ダイニング花」(伊勢市)で、伊勢海老の入った海鮮丼を戴きました。

亀山JCT付近から四日市ICまでの間が完全な渋滞で、通過に3時間ほど掛かったので、自宅に帰着したのは2:00過ぎになりました。



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中世ハビエル城

2016年8月16日(火)  中世ハビエル城

四日市から、三重県志摩市にある「志摩スペイン村(パルケ・エスパーニャ)」に移動しました。

ここは孫娘の希望した場所です。

ここに、宣教師「フランシスコ・ザビエル」の生家をモチーフにし、実物と同じサイズで精巧に造られた「中世ハビエル城」があります。

館内には、約12,000年に亘るスペインの歴史や文化が、解説されています。

旧石器時代の洞窟「アルタミラ洞窟」の壁画の実物大レプリカがあり、リアルに再現された壁画は、世界でたった3つしかない実物大レプリカだそうです。

高齢者は禁止となっているジェットコースターにも乗りましたが、乗ってみて初めて、何故高齢者が危険なのか分りました。

娘が私は強いと豪語する「アルカサルの戦い」という電子銃のシューティングゲームに挑戦しましたが、ものの見事に遣られました。

思い起こせば、房総半島の先端部のペンションで、当時小学校上級生の娘に野球ゲームで完膚なきまでやられて、その後立ち直れませんでした。

マリア・パペス舞踊団のファーストダンサーが演出・振付・等を手掛けたという、フラメンコショウ「フィエスタ・デ・セビーリャ」も見ました。

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夜は、ホテルにあるスペイン料理のレストランで、スペイン料理のコースを、スペインのビール「クルス・カンポ(Cruzcampo)」と白ワイン「El Coto]で戴きました。

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富田石取祭(2)

2016年8月15日(月)  富田石取祭(2)

鯨船行事の「本練り」と「富田一色けんか祭り」が終ったものの、「石取祭」までには多少時間があったので、一旦はホテルに戻りました。

夕方、近鉄四日市駅の近くで、スペイン料理屋「ニク・バル・ダカラ四日市」で、「バウニャ・カウダ」等の料理を、「モヒート(Mojito)」とワイン「RARE VINEYARDS」(フランス)で戴きました。

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富田では元々、西町(「鳥出神社」)、北村町(「若宮八幡社」)、茂福町(「茂福神社」)の各氏神社祭礼として行われていましたが、平成9(1997)年の四日市市制100周年を機に、3車揃って15日に曳かれる事になりました。

雨のため、子供演技・揃い叩きや、青年会叩き出しが中止になり、19:00からの近鉄富田駅での総叩きから始まりました。

時間が少々あったので、駅前の店で今時評判の「台湾かき氷」を試してみましたが、舌触りが非常に滑らかでした。

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その後「鳥出神社」へ向かい、19:45頃から、北村町、茂福町、西町の順に宮入りし、鳥居を潜ったところで太鼓と鉦を叩きました。

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最後は旧東海道と中央通りの交差点で、3車による総叩きが行われ、21:20頃に「曳き分かれ」て、祭りは終了しました。

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茂福町の祭車は、文政9(1826)年に建造され、桑名の「西之組」から「赤須賀一番組」を経て、大正12(1923)年に茂福へ譲られて来たそうです。

北村町の祭車は、文政年間に建造され、大正10(1921)年に、桑名の「赤州賀」から購入しています。



2016年08月19日

富田一色けんか祭

2016年8月15日(月)  富田一色けんか祭

神徳丸の本練りの最後のほうに雨が降り出し、末社の軒先で雨宿りしていた時に話をし出した地元の方が、近くで面白い祭りがあるのでどうですかと言われたので、付いていきました。

その名も「けんか祭り」ですが、話を聞いていても、もうひとつ要領を得ません。

正式には「富田一色大念仏の富田一色けんか祭」と言われ、仏教系の「大念仏」です。

場所は「富田一色飛鳥神社(とみだいしき あすかじんじゃ)」(三重県四日市市富田一色町、旧村社)という、かつての漁師町の氏子神社です。

一色の町の長い通りには、短い間隔に、提灯が飾られた門構えが建てられていて、壮観です。

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神社の前の「広小路大通りを通り」は幅が広く海に向かっていますが、宮前の両側には防護壁が物々しく建てられていて、ぶつかり合いの激しさを予感させます。

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14時頃になると、昨日「富田石取祭の鎮火祭」で見たのとよく似た、長さ約6mの直径10pほどの丸太棒に吊るされた直径約70〜80pの大きな鉦を叩きながら、「鉦の組」が鳥居前に入ってきました。

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待ち構えていた「太鼓の組」が、「鉦の組」が」境内に入るのを阻止して、揉み合う喧嘩行事です。

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これは、鉦と長さ約1mで直径約60〜70cmの太鼓6個を乱打して、悪魔を追い払い精霊を迎えるという、「大念仏(だいねんぶつ)」行事です。

太鼓の組を押しのけて鉦の組が神社の境内に入った後は、太鼓の組の内輪でののぶつかり合いとなります。

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かつては流血は当たり前で、死人も出る凶暴な祭りだったそうですが、現在は氏子の若衆が集まらなくて外部からの参加もある、以前に比べると大人しい祭事になった様です。

神社から近いところにあったイオン内にある「55カフェ」で、「たこ焼き」を食べて、遅い昼食にしました。

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富田の鯨船行事(2)

2016年8月15日(月)  富田の鯨船行事(2)

9:30から、「四日市公害と環境未来館」を訪れて、孫娘の夏休み自由研究課題に付き合いました。

11:30から鳥出神社で「本練り(ほんねり)」が行われましたが、参加したのは、「神徳丸」(中島組、東富田町中部)と、14:30からの「権現丸」(古川町)です。

まず鳥居の前で「鯨突き」を1本突いて境内に入り、境内では本殿1本と別社1本の計2本の鯨突きを奉納します。

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練りの内容は「町練り」と同じですが、神前での練りだけに、一層気合が入っていたように感じられました。

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「権現丸」の本練りは14:30から始まっていましたが、「神徳丸」の本練りの後「一色けんか祭り」を観に行っていたので、2本目の鯨突きに間に合いました。

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練り込みの後、「浜の組」は嘗ては砂浜であった「ハマ」に出て、多度大社と伊勢神宮に向かって「鯨突き」をした様ですが、都合で鑑賞できませんでした。

「宮参り」は鯨船行事が無事終了したことを氏神様に報告する行事です。

18:30から「神徳丸」、19:00から「権現丸」、19:30から「神社丸」が宮参りしたようですが、石取祭3車連合祭車巡行が鳥出神社に宮入する少し前には、終わってしまってました。

富田の鯨船行事は、北部伊勢地方に分布する鯨船行事を代表するものであり、鯨突きが象徴する漁撈による豊かな生活を祈念する意識を背景に、風流行事の中に捕鯨習俗を取り入れたものと言えます。



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富田石取祭(1)

2016年8月14日(日)  富田石取祭(1)

東富田町中部での「町練り」が一段落ついたので、近鉄富田駅のほうに移動して、「富田の石取祭(いしどりまつり)」の「鎮火祭」を観賞に行きました。

これは夕刻からの祭車巡行に先立って行われるもので、直径10pほどの太い棒に吊るした直径60〜70pの大きな鉦を、叩きながら歩いて回るというものですが、途中で周りから水をぶっかけられます。

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「石取祭」は、もともと桑名の祭りで 「町屋(まちや)川」(員弁川の下流)で、「栗石」(握りこぶし程の御影石)を採取し、春日神社に奉納したのが始まりです。

石取祭は、愛知県津島市や名古屋市、三重県鈴鹿市でも継承されています。

四日市市にも、「松原(まつばら)」(7月13〜15日)や「天ヶ須賀(あまがすか)」(8月14〜15日)の石取祭りがありますが、富田地区にも、「祭車(さいしゃ)」が3台だけなので規模は小さいながらも、継承されてきました。

40台を超える祭車が出る、桑名春日神社の「石取祭」は、2008年8月3日(日)に鑑賞しており、2009年12月2日に、カテゴリー:囃子・太鼓・芸屋台、花鉾に、投稿していますので、ご覧ください。

孫娘達にも、同じ地域で2つの祭りが同時に観賞できるという、またとない好い機会になりました。

一旦、近鉄四日市駅に近いホテルにチェックインして暫く休憩してから、近くの寿司屋で夕食を摂ってから、近鉄に乗って再び富田に向かいました。

地ビール「神都(しんと)麥酒」(二軒茶屋餅角屋本店、伊勢市、5%)や三重の地酒「宮の雪」(伊賀市)、「三重錦」(鈴鹿市)を戴きました。

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桑名の「日本一やかましい祭り」という触れ込みは、あながち当ってない訳ではありませんが、富田では祭車が3車だけで、今夜は「西町」の祭車だけでしたから、桑名の様な大音響にはなりません。

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冨田西町の祭車は、1847〜1859年頃に建造されたと推定されてますが、大正11(1922)年に、桑名の旧東舩馬町から譲り受けています。

冨田西町での言い伝えによると、「祭車は町屋川原まで曳かれて来て、引き渡された。桑名からの見送りの人々や当町からの出迎えの人々で付近は溢れており、富田まで賑やかに囃して帰った。」とのことです。



2016年08月18日

富田の鯨船行事(1)

2016年8月14日(日)  富田の鯨船行事(1)

「富田の鯨船行事(とみだのくじらぶねぎょうじ)」は、三重県四日市市富田(とみだ)地区の捕鯨行事で、「富田の石取祭」と同時に行われる富田地区の夏祭りです。

毎年8月14日〜15日の2日間、「鳥出(とりで)神社」(四日市市東富田町、旧県社)を中心に、四日市市東富田町と古川町自治会の町内で開催されます。

本来は秋祭りの行事でしたが、秋はヒシコ漁の最盛期で忙しいので、お盆に鯨船行事を行うようになりました。

9:00からの「鎮火祭」(鳥出神社)に間に合うように、犬山のホテルを8:00に発ちましたが、9:30頃に着いた時に拝殿では、「「感應(かんのう丸)」(南島組、東富田町南部)の鎮火祭が行われていました。

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その後、「権現(ごんげん)丸」(古川町)か、「神社(じんじゃ)丸」(北島組、東富田町北部)か、「神徳(しんとく)丸」(中島組、東富田町中部)かは、感應丸のように揃いのTシャツ姿ではなかったので分らなかったのですが、2つの鯨船の関係者が少人数で参拝しました。

感應丸の関係者は大人数で揃いのTシャツ姿だったので、これぞ鯨船関係者と思ったのですが、その後の「町練り」も「本練り」にも参加しなかったので、拍子抜けしました。

次のような民話が残っています。

『昔々の大昔、伊勢湾でも鯨が捕れた頃のことやさ。

親鯨は、子鯨をかばいながら泳いでいた。漁師たちは何時間もの追跡の末に、銛を打てる所まで鯨に近づいていったんや。

そして長い時間待っとった。そしたら息を継ごうとして、鯨が大きな体を海面から突き出して現れたんや。親鯨と子鯨やった。

ほしたら、その時親鯨は、銛打ちに哀願するように言ったんや。「私たちは、はるか紀州の海から伊勢参りにやってきました。せめて伊勢参りがすむまで見逃してください。」親鯨の目からは大粒の涙が光った。しかし、銛打ちは、親鯨の背中に、一番銛を打ちこんだんや。見る見るうちに海は真っ赤に染まった。

苦しみながら、親鯨は、それでも訴えた。「子供だけは、助けてやってください。」しかし、漁師たちは、子鯨共々射止めてしもたんや。

それからというものは、富田の浜では一匹の魚も網に架からん様になってしもたんや。浜では、あの親子の鯨の祟りに違いあらへん・・と噂しあった。

困りきった猟師たちは、親子の鯨の霊を慰めようと、伊勢参りにも行き、もう二度と鯨は取らんと誓ったりしたんや。ほんでやっと浜にも前のように魚が戻ってきた。ほんでも、猟師たちは、あの勇壮な鯨取りを忘れることが出来やなんだんやな。

ほんで年に一度の夏祭りに、その勇ましかった鯨取りを、陸の上で偲ぶことにしたんや。これが富田の鯨船祭りの始まりなんや。』

以上

鎮火祭が終ると、各町の鯨船は各町内に戻り、「町練り(ちょうねり)」を行います

先ずは、国道1号線を越えて海岸近くにある、「神徳(しんとく)丸」(中島組、東富田町中部)の町内に向かいました。

港から出たとされる「鯨船山車(くじらぶねだし)」(全長約9m、最大幅約2.3m)は、鯨のいる場所まで、「流し唄」と呼ばれる櫓こぎの世間話を表現した唄を唄いながら、ゆっくり移動します。 

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鯨船山車には、「ハザシ(刃刺、羽差)」(12歳の男児)2、3名、ハザシを支える「胴持ち」と「足持ち」が1名ずつ、「ロコギ(櫓漕ぎ)」(6〜12歳の男児)4〜6名、「太鼓たたき」2名が乗り込んでいます。

「練り受け」を頼んだ民家に着くと(と言われていますが、私には認識できませんでした)、鯨を発見するところから始まり、後部に居る「ウタアゲ(唄上げ)」という歌い手達が、鯨を発見したという「役唄(やくうた)」を唄います。

♪ 沖の鴎が後へ浮いた、さあ蝉はくるくるのほほをへ後へくる ♪ 

鯨船山車を左右に傾けて、張りぼての鯨を追い詰めて行きますが、鯨の巨体に因って大きな波が起こり、船が揺れている様子を表現しています。

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一旦は鯨を追いつめますが、形成逆転して逆に鯨に追い掛けられます。 

鯨船山車は態勢を整えて鯨を追い詰めてゆき、最後に海面から顔を出した鯨に、「ハザシ」が銛を打ち込みます。

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鯨を仕留めると「ウタアゲ」が「♪宮の前で鯨を突いたえ…♪」という役唄を唄い、鯨を引き上げる際の大きな縦揺れを「拝礼」に模して、「鯨突き」一本が終了します。

この繰り返しで、行事は続いて行きます。

国道1号線を陸側に戻って、「権現(ごんげん)丸」(古川町)の町内でも町練りをしているので、移動しました。

こちらのほうは既に町練りを実施していたらしく、我々は13:50頃からの町練りを鑑賞して、一旦は近鉄四日市駅近くのホテルにチェックインしました。

ここには、若衆の鯨のほかに、小型の女子による鯨もあり、元気いっぱいに動き回っていました。

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夜猿神社

2016年8月13日(土)  夜猿神社 

「夜猿(やえん)神社」は、「日本モンキーセンター」(愛知県犬山市)の「モンキースクランブル」内にある神社です。

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「七福猿と三賢人巡り」と書かれた旗がたなびいてます。

10時から「サンプルヴィレッジいわさき」(郡上市内)で、食堂メニュー模型の製作に、加わりました。

挑戦したのは「天ぷらセット」で、椎茸の模型にゴム製の衣を巻き付け、ゴム製のレタスを作って半分に切ると、完成です。

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孫娘達のほうが上手かったようです。

日本モンキーセンターでは、「ギボンハウス」の「シロテナガザル」の仕草が可愛かったです。


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また、「Waoランド」では「ワオキツネザル」が放し飼いにされていて、すぐ足元に寄ってくるほど、警戒感がありません。

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犬山市のホテルに泊まり、「ひつまぶし」等の料理を、尾張の地酒「小牧山 原酒」(山星酒造 、愛知県江南市)で戴きました。

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郡上おどり

2016年8月12日(金)  郡上おどり

今夜の踊り会場は、旅館の目の前の「城下町プラザ」での「納涼祭」だったので、夕食の後、そのまま表に出ました。

郡上踊りは、中世の「念仏踊り」や「風流踊り」の流れを汲むと考えられており、体裁が整えられたのは郡上藩主の奨励によるとされています。

初代藩主(1603〜1615年)が領民親睦のため奨励したのが発祥とも、江戸中期の藩主時代(1758〜)に、百姓一揆(宝暦騒動)後の四民融和をはかるため奨励したのが発祥とも、言われていますが定かではないようです。

江戸時代に藩主が士農工商の融和を図るために、藩内の村々で踊られていた盆踊りを城下に集め、「盆の4日間は身分の隔てなく無礼講で踊るがよい」と奨励したため年ごとに盛んになったものです。

「囃子方」(音頭とり、三味線、太鼓、笛)が乗る「おどり屋台」(「屋形((やかた)」)を中心にして、自由に輪を作り時計回りに周回しながら踊ります。

屋形は可動式の木造2層構造なので、開催日毎に会場に移動し設置されます。

踊りへの参加は自由で、初心者や観光客でも見様見真似で踊ることが出来るので、孫娘も一生懸命踊っていました。

装束は男女とも浴衣に下駄履きが標準的 で規制はないので、私は旅館の浴衣姿、娘達は普段着で参加しました。

城下の盆踊りを集めたと言われているだけあって、「郡上おどり」は10曲を数えます。

1.「かわさき」: ♪郡上の八幡出てゆく時は、雨も降らぬに袖しぼる…♪ で始まる歌詞はよく知られていて、郡上おどりを代表する踊りです。

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大正3(1914)年に開かれた共進会(今でいう博覧会)に上演し、郡上おどりを広く全国に普及させるため、郡上之曲「花のみよしの」をもとに「古調かわさき」の動きを取り入れて新しく作られたものです。

この曲は車のオーディオのDVDに入れていて、走行中に「全国民謡集」をいつも聴いているので、直ぐに分かりました。

囃子言葉の「アーソンレンセ」は、「祖霊祭り」が訛ったものと言われており、先祖の霊や精霊を迎えて踊ると言う盆踊り本来の目的を示しているそうです。

2.「春駒」:江戸時代に馬の一大産地であった郡上にふさわしいアップテンポの踊りで、手綱さばきの勇ましい姿が、活きのいい踊りの動きに取り入れられています。

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元唄は越前から来る鯖売りの掛け声が変化したもの、というのが定説ですが、名称は、1952年に「さば」から「春駒」に改称されています。

♪春駒、春駒♪ という歌詞は親しみ深く、直ぐに耳に残ってしまいます。

3.「三百」:
宝暦9(1759)年、宮津藩から転封させられてきた新藩主が、宝暦の一揆で疲弊した領地を見て、供の者や出迎えた領民に身分の隔てなく300文ずつ与えたところ、驚き感激した領民が地踊りを披露したのが起源とされています。

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その姿が今に伝えられていますが、稲束を投げる所作や田げたで湿田を歩く動きなど、素朴な農作業がフリや曲の歌詞にも取り入れられているようです。

4.「やっちく」:江戸時代末期になると様々な旅芸人が入り込みましたが、その中で両手に八枚の竹片を連ねて鳴らしながら門付けして回った曲に、素朴な振り付 けがついたものがこの踊りです。

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5.「げんげんばらばら」:江戸時代の御殿女中の手まり遊びが踊り姿になったもので、着物の袂を手繰る優雅な仕草が特徴です。

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歌詞の元唄は、この地方で唄われていた童唄や糸引き唄でしたが、奇妙な唄名はケンケンという雉の鳴き声や、バタバタという羽根の音を表現した「ケンケンバタバタなぜ無くね 親がないか子がないか」という童唄の歌詞から来ています。

6.「猫の子」:かつて養蚕農家では蚕を食い荒らすネズミ退治に猫が大事に飼われていましたが、子猫の愛 らしい所作を真似して動きに取り入れた、奔放で愉快な踊りです。

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若い衆が、従来の踊りに飽き足らなくて、即興的に唄い踊ったものと考えられています。

7.「さわぎ」:旅芸人等に依って伝えられ遊里で流行していた「騒歌(さわぎうた)」が、元禄時代に踊り化されたもので、手拍子が派手に打たれ、下駄の音が事更に打ち鳴らされます。

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歌詞には、男女間の情感を唄った艶物が多く見られます。

8.「郡上甚句」:「甚句」は、「地の句」が訛ったものと言われ、その地方で唄いつがれたものですが、江戸時代末期に流行した相撲甚句が、地相撲の盛んであった郡上に伝わり、盛んに唄われました。

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土俵入りの動きが曲にうまく納まるというおもしろい特徴ももっている、と言われても良く分かりませんが、 ♪どっこいどっこい♪という合の手は、良く分かります。

9.「古調かわさき」:天正年間(1580年代)に、伊勢国古市の「川崎音頭」が郡上の地に伝えられて起源となったもので、農耕の所作が踊り化されています。

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「かわさき」に比べると、ゆっくりした調子で、哀愁を漂わせています。

歌詞には庶民生活に基くものや作業歌が残されていて、民俗資料としての価値が高いことから、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

10.「松阪」:江戸時代には「伊勢参り」が盛んでしたが、伊勢国古市の「木遣り音頭」が伝わったもので、古くからの伝統で最後の踊りと決まっています。

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囃子言葉の「ア、ヨイヤナ、ヤートセ」は、木遣り音頭の「ヤートコセ、ヨーイヤナ」が訛ったもので、単調な節回しでありながら、しみじみとした情感を漂わせています。

今日の「納涼祭」は、19:30から21:30まででしたが、十分に堪能出来ました。



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白川八幡神社

2016年8月12日(金)  白川八幡神社

木曜日の深夜、孫娘と娘とともに船橋を出て、今回買い換えたNX300hの初遠出として夜走りして、翌朝の11;00過ぎに「白川郷」(岐阜県大野郡白川村)に着きました。

展望台から白川郷を展望した後、白川郷の合掌造りの民家を見て回り、集落の外れにある白川郷の産土神である「白川八幡神社(しらかわはちまんじんじゃ)」に到りました。

勧請年代は不詳ですが、口碑によれば、和同年間の創立と伝えられています。。

白川郷43か村の総社とされ、祭神は荻町や戸ケ野、島集落の氏神として崇敬されてきました。

毎年10月14日・15日には、「どぶろく祭り」が行われますが、私の長年の懸案でもあるので、今秋にもいってみたいとは思っています。

「郡上八幡城」に歩いて登りましたが、白川郷の展望台より、少々高かったので(標高354m、山麓からの標高差130m)、登り切るまでに20分ほど掛かりました。

山麓にある「釼岸神社」は「金幣神社」と書かれていたので調べてみると、「岐阜県神社庁史」によると、例祭などで神社本庁から献幣されるとき、県神社庁長が参向する神社では金幣をもって奉幣行事が行われるため、氏子の間でこの称号が用いられるようになったとのことです。

旅館に入ると、19:30からの「郡上踊り」に備えて風呂を浴びて身を清め、食事では鮎の刺身を「奥美濃母情 大吟醸生」(平野醸造、郡上市、精米50%)で戴き、更に清めました。

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2016年08月09日

市川ライオンズB暑気払い

2016年8月7日(日)  市川ライオンズB暑気払い

14:00から、JR本八幡駅の近くの居酒屋「くつろぎ屋」で、我がチームの暑気払い飲み会を行いました。

11名が参加しました。

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午前中テニスの朝練に参加して一風呂浴びた後なので、先ず・生ビから始めてマッコーリ、紅白ワイン等を美味しく戴きました。

還暦野球千葉県大会の前半の成績が5勝1敗1引き分けと、今の処2位に付けているので、9月以降の残る2試合に連勝して、来期には2部への復帰を果すことを誓い合いました。

2次会は居酒屋から近くの「パブうま」でカラオケに興じ、「浪花恋しぐれ」を久し振りにデュエットしました。



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金光寺、海中寺(伊豆大島)

2016年8月4日(木)  金光寺、海中寺(伊豆大島)

「曹洞宗金医王山光寺(きんこうじ)」(大島町元町)や「日蓮宗海中寺(かいちゅうじ)」(大島町元町)、「大島町霊園元町墓地」には、流人墓地が多く見られます。

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「間瀬定八(ませさだはち)」は、赤穂浪士「間瀬久大夫」の二男で、金光寺に供養塔があり、元町墓地に墓があります。

幕府は浪士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男児を、遠島処分にしました。

間瀬定八は当時20歳で大島に流罪となりましたが、4年後の1707年、綱吉の死去による大赦により遺児全員が赦免となったものの、間瀬定八だけは既に他界していました。

「釜鳴屋平七( かまなりやへいしち)」(1828〜1863年)は、幕末の一揆指導者で、海中寺に記念碑があります。

釜鳴屋平七は伊豆熱海村の網元で、鮪網の権利の独占をはかる村役人に対し、「網子(あみこ)」の側に立って安政6(1859)年に韮山代官所に直訴しましたが捕らえられて遠島に処され、八丈島へ送られる途中、伊豆大島で死亡しました。

「不受不施派(ふじゅふせは)」とは、日蓮の教義である法華経を信仰しない者から布施を受けたり、法施などをしないという教義を守ろうとした、日蓮宗の宗派ですが、流人墓地は神津島にもありました。

「小栗兄弟(兵庫・十蔵)」は、越後高田藩の家老「小栗美作」の親族で、元町墓地に墓があります。

江戸時代前期に起った「越後騒動(えちごそうどう)」で、美作は切腹になり、弟の「兵庫・十蔵」らが大島へ流刑となったものです。

じりじりと突き刺すような直射日光を浴びながら、気力を振り絞って、墓地をうろつきました。

かんかん照りなのに何故か、東海汽船の寄港地が岡田港になったので、「サンセットパームライン」を経由して、岡田から高速ジェット船大漁に乗って離島しました。

流石に疲れが出たのか、船中では眠りこけて仕舞いました。

竹島では、ニューピアサウスタワーにある「兼蔵」で、「三角定義炙り」(仙台名物)や「鯵の山河焼」(千葉県名物)を、「飛露喜」(廣木酒造本店、福島県会津坂下町)で戴きました。



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2016年08月08日

波布比当ス神社 慈眼寺(伊豆大島)

2016年8月4日(木)  波布比当ス神社 慈眼寺(伊豆大島)

「波布比当ス神社(はぶひめのみことじんじゃ)」(通称は「波浮(はぶ)神社」、「波浮大明神」。旧「郷社」)は、「波浮の港」や「アンコ椿は恋の花」等の歌で有名な、島の南端「波浮港」(大島町波浮)にあります。

「延喜式神名帳」には伊豆国賀茂郡の神社として、「波布比売命神社」、「阿治古(あじこ)神社」、「波治(はじ)神社」の3社が記されてますが、ぞれそれ波浮港の「波布比命神社」、野増の「大宮神社」、泉津(せんづ)の「波知加麻(はじかま)神社」に比定されています。

祭神は「はぶ大后」と言われ、「三島大明神縁起」によると、「三島の神」(事代主命)は、伊豆の島々に后を置いて、七島開拓に当たった、と言います。

波浮湾は元は火口湖でしたが、元緑16(1703〉年の大津波により、外海との壁が欠壊し、海と繋がったとみられています。

波浮は崖の意味で、海に面する火山湖を女神として祀ったものです。

波浮港には現在も古い木造家屋の町並みがわずかに残り、港東側の界隈が「踊り子の里」と呼ばれています。

「伊豆の踊子」の主人公カオルのモデルとなったタミとその家族は、波浮で実際に生活していました。

崖の中腹に建つ「旧港屋(みなとや)旅館」は、資料館として当時の儘の姿で保存されていて、「伊豆の踊り子」の旅芸人一座が芸を披露した宴の様子を、人形を使って再現しています。

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明治時代の網元の屋敷跡である「旧甚の丸(じんのまる)邸」は石造りの2階建で、外壁はなまこ壁の漆喰装飾が施され、島外から取り寄せた極太の木材で組んだ梁や柱、大谷石の外塀など、豪勢な暮らしぶりが垣間見られます。

私のルーツも山陰地方の網元と聞いているので、親しみを覚えます。

「慈眼寺・野増(のまし)墓地」(大島町野増)には、武田信玄の孫「武田信道(たけだ のぶみち)」(1574〜1643年)の供養塔があります。

信道は武田遺臣である大久保長安の庇護を受けていましたが、「大久保長安事件」に連座して、1615年に大島に島流しされ、野増に居を構え没したと言われています。

昼食は、元町地区の郷土料理屋「雑魚や 紀洋丸」で、「海の玉手箱」を注文し、「べっこう丼」や「たたきあげ」、「いかとあしたばのたたきあげ」を戴きました。

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2016年08月07日

三原神社 役の行者窟(伊豆大島)

2016年8月4日 (木)  三原神社 役の行者窟(伊豆大島)

6:30からの朝食で鱈腹食べた後、三原山頂口に向い、7時過ぎに登り始めました。

後の予定が多くて時間に余裕がないので、早めに休憩なしで歩いたら、案内板に書かれた所要時間45分のところを、30分で山頂に着いて仕舞いました。

あちこちに百合の花が咲いていましたが、その名は、ここでも「為朝百合」とか。

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その昔、三原山の近くに、「阿治古(あじこ)」と呼ばれる古い地域に集落があり、「阿治古神社」が鎮座 していました。

たびたびの噴火降灰により、文正2(1466)年に祭神「阿治古命」 を野増(のます)地区の大宮の地に遷座したため、御神火が遠くなったので、阿治古命を「三原大明神」として祀る様になっ たとされています。

「伊豆大島差出し帳」の記述によれば、天明9(1789)年には既に「三原神社」が鎮座しており、毎年6月1日に祭礼が行われ 村民は神職と共に1週間前からお籠りをして身を清めて参拝した、とあるそうです。

一旦ホテルに戻って一風呂浴びた後チェックアウトして、波浮港へ向かう途中に、「役の行者(えんのぎょうじゃ)窟」を訪ねました。

しかし海岸縁の遊歩道に通じる階段も崩壊していて、立ち入り禁止の標示までも辿り着けない状態になっていたので、諦めて引き返しました。

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毎年6月15日に行われる「行者祭り」も、行者窟内で崩落が起こって以降は、手前の「行者浜」で行われているそうです。



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龍王神社、福聚寺(伊豆大島)

2016年8月3日 (水)  龍王神社、福聚寺

「岡田港」(大島町岡田)は、「元町港」が天候次第で使えない時に東海汽船の船が寄港する、大島北端にある港です。

港に面した「龍王(りゅうおう)神社」は、岡田の古い町並みの中にある「八幡神社」の祭神が源氏であることから、平家の神々が怒って災害をもたらすので、ここに祀られたと言われています。

一説には、安徳天皇が祀られているとも言われています。

「八幡神社」で奉納される「天古舞(てこまい)」や「手踊り」が、同じように此処でも奉納されているようです。

龍王神社の前には、「力士大嶌傳吉碑(りきしおおしまでんきちひ)」があります。

明治の初頭には「関取」と「力士」の区別があり、土俵の上で相撲を取るのが関取、関取と一緒に興行にゆき、観衆の前で怪力ぶりを見せるのが力士だったそうです。

傳吉は「力士」でしたが、高砂浦五郎、阿武松縁之助の両関取が2人がかりでも動かせなかった大石を、1人で楽々と動かしてしまったと伝えられています。

「曹洞宗福聚寺(ふくじゅうじ)」(大島町岡田)には、「栗本佐治郎記念碑」(テリコの碑)があります。

豊後出身の栗本佐治郎は、漁労のため大島へ来ましたが、国元に帰った後再び来島し、「天留古(てりこ)」という甘藷をもたらしました。

てりこは、日照りにも長雨にも強く美味しかったので、その後全島に広まりました。

場所を探し倦んでいるうちに結構時間を食い、いい時間になったので、三原山の山腹にある「三原山温泉」の宿泊地に向いました。

夕食には「金目鯛のしゃぶしゃぶ」他の料理を、赤ワイン「Toqui Andino Cabernet Sauvignon)」(チリ、12.5%)で戴きました。



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2016年08月06日

為朝神社(伊豆大島)

2016年8月3日(水)  為朝神社(伊豆大島)

さるびあ丸は、もう少しゆっくり進んでもいいと思っていたのに、14時過ぎに「元町港」(大島町元町)に着いてしまいましたが、ここは私には初めての地です。

レンタカーを借りて、島の史跡を中心に観て回りました。

最初に元町港の直ぐ近くにある「為朝(ためとも)館跡」を目指しました、探し出すのに随分時間が掛かりました。

というのは、島全体に付いて言える事ですが、案内表示が余りに小さく簡単なので、運転しながらでは見落として仕舞うのです。

弓の名人といわれた鎮西八郎源為朝が、保元の乱に敗れて捕えられ、大島に流されて住んでいた館の跡には、「為朝(高殿:こうどの)神社」や「赤門」、「物見台」、「抜け穴」が残されています。

為朝の為に特に許されたと言う、格式のある朱塗りの門は、「赤門」と呼ばれています。

次に「大島町郷土資料館」を訪ねました。

1986年の大噴火の時に発声したと言う、うどんが垂れ下がった様な形をした、珍しい溶岩が展示されていました。

また歌にも歌われている「あんこ」の語源は、目上の女性に対する敬称「姉っこ」が訛ったもの、とされているそうです。



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2016年08月05日

竜神様(神津島)

2016年8月3日(水)  竜神様

大島へ行く大型客船さるびあ丸の9:30発まで少し余裕があるので、神津港辺りを朝散しました。

港内の「神木(かんき)」と呼ばれる岩場に、「竜神様」という小さな社があり、漁民の守り神として崇敬されています。

突堤を建設した時にも、敢えて保存されたようです。

階段を登って行くと、神前に佇んでいた鴎らしき鳥が、よたよたとした足取りと飛び方で、鳥居を潜った私のすぐ横を逃げて行ったので吃驚しました。

親から自立を求められた直後の若鳥なのか、変なものを食って二日酔いなのか。

大島までは式根島や新島、利島に寄港するため約3時間半掛かるので、特一等にしてみました。

4人部屋に独りきりだったので、浴衣に着替えてお茶を淹れ、TVを見たり窓外の風景を楽しんだりして、ゆったりした船旅を満喫しました。



posted by yone at 22:33| Comment(2) | TrackBack(0) | 神社仏閣 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする