2016年12月04日

サングリーンテニスクラブ朝練忘年会

2016年12月4日(日)  サングリーンテニスクラブ朝練忘年会

サングリーンテニスクラブでの朝練参加者の忘年会が、津田沼駅近くの台湾料理店「百楽門」で、Y監督以下8人が出席して行われました。

内訳は、70歳台2人、60歳台3人、50歳台1人、若手″の40歳台と30歳台が各1人という、日本社会の縮図とも言うべき構成です。

50歳以上でシングルスに執念を燃やしているのは、流石に私だけですが、40歳台の若手″に朝練の後、シングルスの練習試合を、時々お願いしています。

今の所私は、70歳シングルス乃至は75歳シングルスに照準を定めて、練習に励んでいます。

何人かはくたばって仕舞わないかとお互いに思っているんでしょうが、ここまでくると中々しぶとく、生き永らえる者が多いのが実情です。

例年のことながら、色んな台湾料理を、紹興酒で美味しく戴きました。




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2016年11月30日

梶岡杯初戦(監督″としての初勝利)

2016年11月30日(水)  梶岡杯初戦(監督″としての初勝利)

「市川ライオンズ」の球団員約90名を4つのチームに分けて行う「梶岡(元阪神タイガース投手)杯」の2日目(初日は降雪のため中止)が、「国府台球場」(千葉県市川市)で行われました。

私が振り分けられた「ジャイアンツ」は「イーグルス」と戦いました。

3年目の今年は世話役に推薦されたので、正世話役として副世話役のSさんとファミレスでランチミーティングをして、守備や打順等に頭をひねりました。

ベンチに入ると、世話役は諸先輩からも「監督」と呼ばれ、色んな質問にも、的確に対処していかねばなりません。

EDH制が採用されるので14名全員が打席に立ち、投手以外は、原則として3イニング以上守備に就きます。

投手は連続3イニング以内とされ、再登板ができませんが、野手としては出場出来ます。

6番ショートで先発しました。

第1打席は2塁への内野安打となり、2盗の後、得点を挙げました。

第2打席は右中間に落ちるヒットを放ち、2盗の後、2点目の得点を記録しました。

第3打席は、5-5の同点で満塁の場面で、左中間への鋭い打球を打ったものの、センターの好守に阻まれて単打に終わりましたが、打点2を記録し、勝利打点になりました。

守備では、2塁封殺の投球ミスを一回しましたが、それ以外は無難にこなし、三遊間のゴロを逆シングルで捕球してアウトにすることも出来たので、まあ満足のいく結果でした。

試合は11-5で勝ち、監督″としての初采配を、勝利で飾ることが出来ました。



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2016年11月24日

埼玉生涯現役野球大会(2)

2016年11月23日(水)  埼玉生涯現役野球大会(2)

第2回戦は、第1回戦の勝者同士が戦うことになり、東京都還暦野球連盟2部(9部中)に所属する「全世田谷野球倶楽部」と対戦しました。

打順は10番に後退し、ライトで先発しました。

気が楽になった筈ですが、前の試合での負の結果を引き摺った形で、第1打席はセカンドフライに倒れ、第2打席は空振りの三振を喫しました。

結局、今日の2試合は5打数1安打で、打率も出塁率も下げてしまいました。

チームは打棒が振るい、投手陣も好投したので、9-3で勝ち、Bグループで優勝を果たしました。

4番に定着できるように、精進を重ねたいと思います。



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2016年11月23日

埼玉生涯現役野球大会

2016年11月23日(水)  埼玉生涯現役野球大会

第2回生涯現役野球大会は、「ふじみ野市荒川運動公園野球場」で、行われました。

生涯現役の部Bグループは、「市川ライオンズ」、「東京ファイターズ」、「浦和還暦野球倶楽部」、「全世田谷野球倶楽部」の4チームで戦いました。

第1試合は、東京都還暦軟式野球連盟6部(9部中)の東京ファイターズと戦いましたが、2-1で辛勝しました。

4番ライトで先発しました。

県大会最終戦「君津サムライ」戦で、反撃の狼煙となった3塁打を放ち、その後の練習でも快打を飛ばしていたことから起用されたものと思われます。

第1打席はショートフライ、第2打席は空振りの三振に倒れ、第3打席目にやっとライト線に落ちるヒットが出ました。

初めての4番という大役を仰せつかり、やはり緊張しました。

その重圧に押し潰された様な格好で、走塁等にも悪影響が出たので、満足の行かない結果に終わってしまい、ほろ苦い4番デヴューとなりました。



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2016年11月21日

売太神社(大和郡山市)

2016年11月18日(金)  売太神社(大和郡山市)

大和郡山市の市街地から南東の田圃の中にある「稗田環濠集落(ひえだかんごうしゅうらく)」(大和郡山市稗田町)にある、「売太(めた)神社」(旧社格は県社)を訪ねました。

主斉神は、古事記の編纂者の一人とされる「稗田阿礼命(ひえだのあれのみこと)」です。

このあたりが猿女君稗田一族の居住地だったため、稗田阿礼の出身地とされています。

環濠は整備されて完全な形で現存しているので、一周するとかなりの規模ですが、橿原市の「今井環濠集落」よりも大きいのかどうかは分りません。

私が神社の前の濠に近づくと、亀が川岸から濠に飛び込む音がしましたが、2匹が残っていたので、小ぶりの亀に小石を投げたら濠に飛び込みました。

しかし大きい方の、この辺りの主のような顔をした亀は、小石ではびくともしないので、小枝を投げると、やっと退散しました。

2匹ともアカミミの外来種ではなく在来種のくさ亀だったので、ちょっとホットしました。

名阪道から帰り、高速では走行車線を80〜100q/hでクルーズ走行しました。

たまに直前に割り込んでくる下手な危険運転手には苛立つものの、基本的に安全運転した結果、約550qで燃費21.6q/lを記録しました。



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2016年11月20日

大和郡山城址

2016年11月18日(金)  大和郡山城址

西大寺からの帰途、奈良県「大和郡山(やまとこおりやま)市」を歴史散歩しました。

市役所で街歩きのパンフレットを入手して、豊臣秀吉の弟である大納言「豊臣秀長(ひでなが)」の菩提寺「春岳院(しゅんがくいん)」から散歩を始めました。

JR郡山駅前の「喫茶・居酒屋のん」でモーニングを戴いて、「義経千本桜」に登場する「源九郎狐」ゆかりの神社「源九郎稲荷神社(げんくろういなりじんじゃ)」近くの「源九郎餅中嶋本舗」では、「源九郎餅」と「御城之口餅(おしろのくちもち)」を買って食べました。

秀長の墓所「大納言塚」は、豊臣秀吉が建てた「大光院(だいこういん)」という菩提寺が豊臣家滅亡の後京都に移され、位牌が春岳院に託されて墓地が荒廃したので、春岳院の僧が五輪塔を建立したものだそうです。

秀長が天正13(1585)年に入城した「郡山城」は、天守台付近が耐震工事中でしたが、「柳沢文庫」付近の紅葉が進み始めていて、常緑樹との明暗・対照が映えていました。

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「カフェ・レストラン カステッロ」で、城の石垣を眺めながら和風弁当とケーキを戴いて、街中散歩を〆ました。



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2016年11月19日

西大寺(プティ同窓会の前に)

2016年11月17日(木)  西大寺(プティ同窓会の前に)

宝が池球技場で高校の同級生M君が主宰するサークルでテニスをした後、高校時代の同級生達5人でプティ同窓会を持つために、奈良市西大寺へ向かいました。

ホテルで風呂に入ってから出掛けると、既に日が落ちていましたが、スペイン料理屋「PicaPica」が近鉄西大寺駅に近かったので、「真言律宗総本山 勝寳山西大寺」を訪れました。

記憶がとんと蘇らないので、果して嘗て来たことがあったのかどうか定かではありません。

すっかり夜の帳が下り、殆ど照明のない境内を歩くのは、なかなか乙な味わいがあります。

珠玉タパス9種類盛合せ、自家製スモークサーモンのエンサラーダ、アヒージョ(青森にんにく使用)、近大ブリのカタルーニャ風~バルサミコとアーモンド風味~、奥羽牛イチボのプランチャ(ソテー)、イカ墨のパエリア等を、美味しく戴きました。

世話役のK君が、仲間に日本酒に五月蠅いのが居ると言ってくれたので、フリードリンクメニュには無い「風の森ALPHA」(油長酒造、御所市、65%、14度)が特別に用意されました。

本当にすごく美味しかったので、酒をしょっちゅう買いに行く、近くのやまやに置いてあれば、買ってみたいと思いました。

スペインレストランなので、「自家製サングリア(赤、白)」や「ティント・デ・ベラ―ノ」(赤ワイン+ソーダ)、「スプリッツァ」(白ワイン+ソーダ+レモン)も、美味しく戴きました。

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2016年11月15日

千葉還暦野球3部準優勝新聞記事

2016年11月6日(日)  千葉還暦野球3部準優勝新聞記事

11月6日付の毎日新聞に、千葉県還暦野球大会の結果が、報道されました。

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しかし1部と2部には言及があるものの、3部リーグへの言及はありません。

言及するに足らずと判断されたのか。

あるいは、紙面の都合で割愛されたのか。

なんとも複雑な悪いをさせられました。

仕方ないので、孫娘の誕生日祝いで、自らの祝勝の機会としました。

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2016年11月05日

千葉還暦野球3部準優勝(君津サムライ戦)

2016年11月5日(土)  千葉還暦野球3部準優勝(君津サムライ戦)

有吉公園球場(千葉市おゆみ野)で行われた今期最終戦で、「君津サムライ」を7-4で下し、6勝2敗1引き分けの成績で、千葉還暦野球3部リーグで準優勝(10チーム中第2位)しました。

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優勝は7勝2敗の君津サムライで、上位2チームが来期2部に昇格します。

2番ライトで先発しましたが、2番は初めてです。

1回表に2点を先行された1回裏、第1打席で3塁キャンバスを抜いた球が、90mのレフトフェンスまで達したので、俊足を生かして3塁を陥れました。

3番打者のヒットでホームに生還し、得点1を記録しました。

第2打席は制球に苦しむ相手投手からストレートの四球を選び、満塁としましたが、得点には至りませんでした。

第3打席は2ストライクに追い込まれ、打った球はファーストフライとなりましたが、1塁手が落球したので出塁しました。

盗塁のサインが出たのでスタートしたところ、次打者が外野を抜くヒットを打ったので、俊足を生かしてそのままホームまで駆け抜けて、2点目を得点しました。

厳しい戦いでしたが、2回裏に逆転した後は押し気味に試合を進め、何とか2位に滑り込むことが出来ました。

来期は2部(7チーム中第7位)に上がるので、一層厳しい戦いが待ってます。



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2016年11月02日

サングリーンテニスクラブ2016合宿

2016年11月1日(火)  サングリーンテニスクラブ2016合宿

千葉県白子町にある「カアナパリホテル」に1泊して、テニス合宿に参加しました。

最近は野球の日程が立て込んでいるので、過去2年間は不参加だったのですが、余り不義理をしてもいかんので、今年は参加しました。

女性8名、男性11名が参加しました。

1日目は、ホテル差し回しのマイクロバスに乗って昼過ぎにホテルに着き、昼食の後13:00から個人戦を行いました。

個人戦は、翌日の紅白戦の成員の振り分けの意味もあるのですが、ダブルス3セットの結果を競った結果、私は3勝でしたが、同じく3勝したSさんに、失ったゲーム数の差で負けて、惜しくも2位になりました。

外房の海を見晴らせる、7階にある温泉風呂で汗を流した後は、海産物を中心とした料理に舌鼓を打ち、久し振りに酒を5合以上戴きました。

部屋に戻ってからは、ビンゴや吹き矢等も楽しみましたが、ビンゴでも個人戦2位賞品に続いて、ビンゴ賞を戴きました。

翌日の紅白戦でもダブルスを3セット戦いましたが、個人戦1位のSさん(白軍)にも勝って、2勝1敗として紅軍の勝利に貢献し、3つ目の賞品を獲得しました。

帰途いつもの通り東金市の乾物屋に立ち寄ったので、鯨の「皮刺身」と「塩皮」、「ひれ酒用ふぐひれ(天日干し)」を買って帰りました。



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2016年10月16日

シャトーカミヤ

2016年10月14日(金)  シャトーカミヤ

「シャトーカミヤ(CHATEAU D.KAMIYA)」は、「神谷傳兵衛(かみやでんべえ)」(1856〜1922)が明治36(1903)年に、茨城県牛久(うしく)市に開設した、日本初の本格的ワイン醸造場です。

フランスの醸造場をモデルにして、ボルドー地方の技術を用いて、葡萄の栽培からワインの醸造・瓶詰めまでを一貫して行なっていました。

取手から移動して、「神谷傳兵衛記念館」を17:00までに観終えて葡萄畑を歩いた頃には、とっぷり日が暮れてしまいました。

「レストラン キャノン」は、100 年以上前に建てられたワイン貯蔵庫を改装したフレンチレストランで、古風なたたずまいが素敵な雰囲気を醸し出してくれます。

今回は「アニバーサリーコース」を予約しましたが、実は最近、69歳の誕生日を迎えたところです。

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「フォアグラと洋梨のソテー マルサラワインソース」は、目の前で料理した舌に蕩ける様なフォアグラを、悪玉コレステロール値の上昇を気にしながらも、美味しく戴きました。

酒は、地黒ビールや「電気ブラン」、白ワイン「モメサン(Mommessin)社 コート・デュ・ローヌ(Cotes du Rhone)」(フランス・ボージョレー地区、13%、辛口)を戴きました。



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2016年10月15日

「新四国相馬霊場八十八か所」長禅寺(取手市)

2016年10月14日(金)  「新四国相馬霊場八十八か所」長禅寺(取手市)

「新四国相馬霊場八十八か所」(取手市58か所、我孫子市26か所、柏市4か所)は、宝暦年間(1751-1764年)に「長禅(ちょうぜん)寺」(茨城県取手市)の僧「観覚光音(かんがくこうおん)禅師」が開いた、四国八十八か所霊場の「写し霊場」です。

禅師が四国八十八カ所霊場から砂を持ち帰り、利根川を挟んだ下総国相馬郡(今の我孫子市や柏市)の寺などにおさめて札所としたもので、 江戸時代には近在の農民や江戸の町民が巡拝し賑わったといわれます。

札所の順番は道順になっていないので、「順打ち」をすれば約570qにも及ぶといわれますが、順番に拘らなければ約70qで済むそうです。

JR取手(とりで)駅から歩いて5分ほどの所に、第1番札所「臨済宗妙心寺派 大鹿山(おおしかさん)長禅寺」があります。

承平元(931)年に、「平将門(たいらのまさかど)」(?−940年)が祈願寺として創建したと伝えられています。

第1番発願(ほつがん)札所は「霊山堂」で、写し寺は「[竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)霊山寺(りょうぜんじ)」(徳島県、四国八十八か所霊場の第1番札所)です。

第5番札所も長禅寺「地蔵堂」にあり、写し寺は「無尽山(むじんざん)荘厳院(しょうごんいん)地蔵寺(じぞうじ)」(徳島県、四国八十八か所霊場の第5番札所)です。

第88番結願(けちがん)札所も長禅寺「大師堂」にあり、写し寺は「医王山(いおうざん)遍照光院(へんじょうこういん)大窪寺(おおくぼじ)」(香川県、四国八十八か所霊場の第88番札所)です。

近くにあった「旧取手宿本陣染野家住宅」を見学しましたが、茅葺の住宅が見事に修復・再建されていたのは、喜ばしいことです。

その後、3番札所「大師堂」(八坂神社境内)や 2番札所「念仏院」、6番札所「薬師堂」、4番札所「不動院」に置かれた小さな大師堂を巡拝して、起伏が多くて真っ直ぐな道の少ない取手駅周辺を一周しました。

途中でヴァーチャルバッティングセンターを見付けたので立ち寄って、藤浪晋太郎の投球を20球打ってみましたが、まずまずの結果でした。



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2016年10月12日

「第18回栃木蔵の街還暦野球大会」栃木還暦野球クラブ戦

2016年10月8日(土)  「第18回栃木蔵の街還暦野球大会」栃木還暦野球クラブ戦

12:30から第2回戦を、第1回戦と同じく、両翼92m、中堅120mある硬式球場で、「栃木還暦野球クラブ」と戦いました。

前年度優勝の同チームは、流石に攻守ともに優位にあり、苦戦しました。

1番ライトで先発しました。

第1打席はサードゴロを打ちましたが、3塁手に軽快に捌かれて、アウトに倒れました。

第2打席は、なかなかヒットの出ない味方の状況から判断してバントを試みましたが、投手の正面を突いてしまい、残念ながら失敗に終わりました。

雨も上がり薄日が差す絶好のコンディションになってきたのですが、試合の方は圧倒され続け、6回裏0-10になった時点でコールド負けとなりました。

1日に2試合を戦ったので、多少は疲れました。

帰りは「新4号バイパス」をエコ運転に徹して約60q/hでクルーズした結果、栃木往復(約250q)での燃費22.6q/lを記録したので、大いに満足しました。



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2016年10月11日

佐野 唐沢山城跡

2016年10月7日(金)  佐野 唐沢山城跡

「唐沢山(からさわやま)城跡」(栃木県佐野市)は、近江国三上山の「百足退治伝説」や「天慶(てんぎょう)の乱」で平将門を滅ぼしたことで有名な「藤原秀郷」が、天慶年間の940年頃に築城したとする伝承もあります。

標高242mある山城へはクネクネと曲がった道を急登したので、それまでに22.4q/lまで伸びていた燃費が21q/にまで急落したほどです。

「唐沢山神社」は、唐沢山城本丸跡にあって藤原秀郷を祀っており、旧社格は「別格官幣社」です。

昔には物見櫓があった「天狗岩」からは、浅間山や赤城山等が遠望され、素晴らしい眺望が展開されています。

城は慶長7(1602)年には山城禁止令に従って廃城とされ、平山城である「春日岡(佐野城)」に移されましたが、そのあと唐沢山周辺は彦根藩領とされたそうです。

百足退治伝説の英雄である藤原秀郷に、明日の試合の必勝を祈願しました。

駐車場周辺は猫の捨て場になっているらしく、観光客から餌をもらって丸々と太った猫どもが悠然と寝そべっていたり、人間様の前を我が物顔に歩き回る姿が見られます。

夕方には栃木市内のホテルに入り、ホテル内の居酒屋で栃木名物の「餃子」や「ジャガイモ入り焼きそば」等を、「四季桜純米酒 生貯蔵」(宇都宮酒造、14%)等で戴き、明日への英気を養いました。



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2016年10月10日

佐野厄除け大師

2016年10月7日(金)  佐野厄除け大師

「天台宗 春日岡山 転法輪院 惣宗官寺(かすがおかやま てんぼうりんいん そうしゅうかんじ)」(栃木県佐野市)は、一般的には「佐野厄除け(やくよけ)大師」の通称で知られています。

開基は「藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)」(平安時代中期。近江国三上山の百足退治伝説で有名)と言われ、「青柳(あおやぎ)大師」(群馬県前橋市)、「川越大師」と共に「関東の三大師」に数えられることが多いそうです。

ここで言う大師とは、第18世天台座主を務めた「良源(慈恵大師(じえだいし)」(通称「元三大師(がんざんだいし)」)のことで、弘法大師を祀った真言宗の「関東厄除け三大師」(西新井大師、川崎大師、 観福寺大師堂)とは全く別物のようです。

周辺には寺の無料駐車場が散在しているので、正月なんかには、さぞかし大勢の参拝客で賑うのでしょう。

参拝する所には、台の上に「お釈迦さまに甘茶をかけて 鐘を一つたたいて手を合わせてください 当山」と書かれた板と、小さな仏像と鐘が置かれていたので、その通りにしました。

惣宗官寺から歩いて10分程のところに、「田中正造ゆかりの 佐野市郷土博物館」があったので見学し、佐野の歴史や田中正造の業績等について、学びました。



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2016年10月09日

結城 健田須賀神社、称名寺

2016年10月7日(金)  健田須賀神社、称名寺

10月8日(土)に行われる「栃木市長杯 第18回栃木蔵の街還暦野球大会」に前泊するために、9時過ぎに家を出て、一般道を利用して栃木市に向かいましたが、先ずは「結城(ゆうき)市」を見学しました。

「京都 太原 三千院 恋に疲れた女がひとり 結城に塩瀬の素描の帯が 池の水面にゆれていた ♪♪」と、「女ひとり」にも歌われた結城紬に興味があったからです。

市役所の受付で豊富な資料の提供を受け、懇切丁寧に見どころや食べ物屋の説明を戴いて、街中に繰り出しました。

「健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)」は、明治3年に「健田神社」と「須賀神社」が合祀されたもので、旧社格は県社です。

須賀神社は結城家初代朝光(あさみつ、1168-1254年)が尾張国津島神社から神霊を勧請したもので、結城の産土神として崇敬されてきました。

昼食は「甘味 茶蔵 真盛堂」という、和菓子屋が経営する和風カフェで、結城名物「すだれ麩ごま酢和え」や「ゆで饅頭」も入った「秋限定ランチ」を戴きました。

「浄土真宗本願寺派 称名寺(しょうみょうじ)」には、結城家初代朝光等の墓所がありました。

「結城蔵美館」には、結城家第17代晴朝(はるとも、1534-1614年)の愛槍「御手杵の槍(おてぎねのやり)」が展示されていましたが、黒田の呑み取りの槍「日本号」と本多平八郎忠勝の「蜻蛉切」とともに、天下三名槍とされているそうです。



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2016年10月08日

「第18回栃木蔵の街還暦野球大会」足立クラブ戦

2016年10月8日(土)  「第18回栃木蔵の街還暦野球大会」足立クラブ戦

雨模様の中で8時過ぎから開会式が行われ、硬式球場での第1回戦で、常々定期戦を行っている「足立クラブ」(東京都足立区)と当たりました。

1番ライトで先発しました。

第1打席は四球を選んで出塁しましたが、次打者の2塁へのフライに1塁へ戻れず、ダブルプレイを喫しました。

第2打席は投手の頭上を抜く内野安打を打って1・2塁とし、暴投で3進した後、次打者のヒットで得点しました。

第3打席は今日2つ目の四球を選び、2盗に成功した後、次打者のヒットで得点しました。

守備では初回に、いきなりライトにゴロが飛んできたので、落ち着いてライトゴロに処理しました。

雨の降る中、追いつ追われつのシーソウゲームを繰り広げ、1時間30分を経過したら新しいイニングに入らないとの大会競技規則に従って、6回で決着することになりました。

試合は12-12となったので、最終の守備に就いた9人同士のクジ引きとなり、辛うじて6-3で勝利し、第2回戦に進出しました。

クジ引きの方法は、茶封筒に入った18本のクジを、各自には結果が分からない様に途中まで引き抜き、その後は1人の審判が最後まで引き抜いて他の審判2人に渡し、最後に審判2人が勝ちクジの数を公表するのです。

相手チームのライトも、4-4になって最後のライトに決着が持ち越されたらどうしょうと心配されてましたが、私もまったく同じ心配をしていたので、なかなか心憎い方法に感心しました。



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2016年09月23日

山形 林家舞楽

2016年9月18日(日)  林家舞楽

「林家舞楽(はやしけぶがく)」は、「谷地八幡宮」の宮司である「林家(はやしけ)」に、一子相伝で伝わる舞楽です。

約1,200年の伝統を持ち、「宮中舞楽」や「四天王寺舞楽」、「南都楽所(なんとらくそ)舞楽」と並ぶ日本四大舞楽の一つとされています。

昔は山形各地で舞楽が行われていましたが、現在は「谷地八幡宮」の秋の例祭に同社境内で、また寒河江市の「慈恩(じおん)寺」の春の法会で舞われる他に、数年に一度催される山形市山寺「立石(りっしゃく)寺」臨時法要にも奉納されています。

聖徳太子は四天王寺に渡来の楽人を配属しその伝習に当たらせ、楽人には、「林」、「薗」、「岡」、「東儀」の姓を与え、代々世襲の家業としましたが、その林氏の一派が「林家」です。

「舞楽由緒」によると林家の祖は、貞観2(860)年慈覚大師円仁の「立石寺」開山に随従して東北に下って舞楽を奉仕し、この後、慈恩寺や熊野神社(寒河江市平塩)、谷地八幡宮の舞楽を司り、谷地に移ったのは江戸時代初期と言われています。

慈恩寺と立石寺は、東北で最大の古刹で、東北に典雅な舞楽をもたらしたのは、この二大寺の存在にあります。

「林家舞楽」は早い時期に地方に下ったため、平安中期以降の「楽制改革(日本化)」の影響が少なく、シルクロードの面影をより多く留めていると言われています。

雨が降り続いていたので心配していたのですが、昼頃には、予定していた石舞台から、拝殿内部にある舞台に場所を移して行うという発表がありました。

室内の舞台も立派なものですが、見物者数が限られるので心配したのですが、「盗塁」の要領でササッと前に進み、観やすい場所を確保しました。

伝承曲目は、「1.燕歩(えんぶ)」、「2.三台(さんだい)」、「3.散手(さんじゅ)」、「4.太平楽(たいへいらく)」、「5.安摩(あま)」、「6.二ノ舞(にのまい)」、「7.還城楽(げんじょうらく)」、「8.抜頭(ばとう)」、「9.陵王(りょうおう)」、「10.納蘇利(なそり)」の10曲です。

すべて林家に伝承されており林家が中心で舞うものですが、「4.太平楽」と、童舞である「7.還城楽(げんじょうらく)」、「8.抜頭」は、林家以外の人が舞うそうです。

1.燕歩;大人による1人舞で、最初に舞われます。

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鉾をもって舞う悪魔調伏の舞いですが、3節からなっていて、初めは天神、中は地祇、最後は祖先を祈ります。

2.三台:大人による1人舞で、則天武后の作と伝えられる優雅な舞です。

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現在では当地の「林家」だけに伝わるのみで、中央の舞楽には遺されておらず、唐の時代にあった小説「遊仙窟(ゆうせんくつ)」の、神仙の世界の艶事を舞いにしたものと言われています。

3.散手:鼻高の赤い面を着けて、鉾を持って舞う大人1人の舞です。。

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「龍冑(たつかぶと)」を被り、太刀を腰に、手には鉾をもって舞われ、勇壮活発な武将を思わせます。

4.太平楽:日本の甲冑を着けた大人による4人の舞で、舞人は慈恩寺の方々です。

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後半は納めていた太刀を引き抜きますが、真剣だそうなので、怪我をしない様に”真剣に”舞っておられました。

5.安摩:「雑面(ぞうめん)」(蔵面、造面とも)という四角い紙の面をつけて、大人1人によって舞われます。

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「チャンパー(Champa)」(今のヴェトナム。中国による呼び名は林邑。)の僧仏哲が伝えたものを、仁明天皇の時代(833 -850年)に「大戸清上おおどのきよかみ)」が改作したもので、次に舞われる「二の舞」とは一対になっています。

6.二の舞:翁と媼による大人2人の舞で、翁は「咲面(さきめん)」(「笑面」(えみめん)とも)、媼は「醜面(しゅうめん)」(「腫面(はれめん)」とも)をつけます。

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天竺(インド)地方の老夫婦が「安摩」を真似て舞おうとするも上手く舞えず滑稽な動きになり、真似て舞うたというので「二の舞」と言われますが、当地では「ジとバの舞」とも言われています。

7.還城楽;面を着けない童の1人舞です。

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舞台の中央に置かれた蛇を持ちあげ、「桴(ばち)」を持って舞いますが、蛇を好んで食する胡国の人が、蛇を見つけて喜ぶ姿を表現したものと言われます。

小学校4年生だそうです。

8.抜頭:童による、花冠を被った可憐な舞で、一見では「還城楽」と似ています。

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「枕草子」には、「抜頭は髪ふりあげたるまみ、うとましけれど楽しと面白し」とあるそうです。

慈恩寺では継承されていませんが、林家では何れも花冠を着け、稚児舞として受け継がれています。

9.陵王:大人1人による、華麗に動く「走り舞(はしりまい)」です。

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北斎の蘭陵王「高長恭(こう ちょうきょう」(541〜573年)は、戦場では恐ろしげな仮面を被って美貌を隠していたと言われますが、その勇姿を称えた舞いです。

10.納蘇利:大人による1人舞ですが、2人の走り舞が多いそうです。

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右手に「桴(ばち)」を持って舞いますが、雌雄の竜が楽しげに舞う様子を表現したものと伝えられています。

楽器は嘗ては3管3鼓が揃っていたそうですが、現在は「龍笛」と「太鼓」、「鉦鼓」の三種のみで、太鼓の縁を打って「羯鼓」の代替にしています。

また舞楽の開始前には楽器のみの「チャクランジョウ」、終了後には「エコウガク」という奏楽がありました。

17時過ぎに山形を経って、高速道路を80qクルーズして、食事も挟んでゆっくり帰ったものの、0時過ぎには船橋に帰着しました。

今回の船橋・坂戸・山形・船橋、約1,000qのトリップの燃費が、19.7q/lまで伸びたので、一応満足してます。



2016年09月22日

山形 谷地八幡宮(2)

2016年9月17日(土)  谷地八幡宮(2)

慈恩寺から河北町谷地に移動して、神社に近い「どんがホール」に駐車出来ました。

「奴(やっこ)巡演」を観ようと「巡行路」を辿りましたが見つけられなかったので、仕方なく「吾妻屋」という蕎麦屋で昼食にし、当地名物の「肉そば」を戴きました。

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昼過ぎには奴行列が神社近くに戻ってきて、大辻や六供といった各町の「祭典事務所」に挨拶しながら、随所で振り姿を披露していきます。

最大のものは30sもあるという重い「毛槍(けやり)」を振り回し、動き出すときにシューッという声を出したり、独特の「掛け歌」を歌いながら歩く姿は、沿道の観衆の喝采を浴びていました。

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参道では、14:30頃に還御してきた神輿の露払いを務めました。

17時近くに舞楽が終わって駐車場に向かっていると、大きな音響が聞こえてきたので、近くに行ってみると、荒北(荒町北)若の「囃子(はやし)屋台」が巡演していました。

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なんとトラックに屋台を乗っけて、屋台の舞台ではAKB48の曲とか歌謡曲が歌われていて、三味線はあるものの、笛・太鼓といった囃子はありません

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2016年09月21日

山形 慈恩寺

2016年9月18日(日)  慈恩寺

朝、外から太鼓の大きな音が聞こえてきたので外へ出てみると、「寒河江まつり」の太鼓車が通り過ぎて行きました。

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谷地へ行く前に、「慈恩宗瑞宝山本山慈恩(じおん)寺」(山形県寒河江市)を訪ねました。

慈恩寺は、「伽藍記」によれば、仁平年間(1151-1153年)に「法相(ほっそう)宗興福寺」の願西上人が本願となって来山したとあるそうです。

その後法相宗以外にも天台宗や真言宗、時宗と、多くの宗派が併存しましたが、寛永19(1642)年に天台・真言両宗兼学となりました

戦後は宗教法人として独立し、「本山慈恩寺」を名乗り、「慈恩宗」という宗派となって現在に至っています。

毎年5月5日に行われる法会「一切経会(いっさいきょうえ)」での「林家舞楽(はやしけぶがく)」奉奏(8曲)は、「谷地八幡宮」と同様に、「立石(りっしゃく)寺」(山形市)から伝わったものです。



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2016年09月20日

山形 谷地八幡宮(1)

2016年9月17日(土)  谷地八幡宮(1)

「谷地八幡宮(やちはちまんぐう)」は、山形県西村山郡河北(かほく)町にあり、旧社格は県社です。

坂戸市を昼過ぎに出て、18:30頃には着き、少し離れた「町民体育館」に駐車しました。

毎年、敬老の日を含む土曜日から月曜日にかけて行われる「谷地どんが祭り」の中で、「例祭」に奉納される「林家舞楽(はやしけぶがく)」は、「宮中舞楽」、「四天王寺舞楽」、「南都楽所(なんとらくそ)舞楽」と並ぶ、四大舞楽の一つとされています。

「どんが」の由来は、舞楽の音が町内の人達には「オヒャロドガン」と聞こえたそうで、嘗ては谷地八幡宮の例祭は「オヒャロドガンの祭り」と呼ばれていたそうです。

「オヒャロ」は笛の音色を、また「ドガン」は太鼓の音を、表しているとか言われています。

40年ほど前に祭りの愛称を決めるに当って、「オヒャロドガン」をもじって「谷地どんがまつり」とされました。

雨が降っていて、19:50から予定されていた「夜遊(やゆう)の舞楽」(2曲)が中止になったので、翌日14:45〜16:45に予定されている「谷地舞楽奉奏(ほうそう)」(10曲)は大丈夫かいなと、心配になりました。

高さが約9mある「提灯屋台」が、拝殿前の左右や、街中にも置かれています。

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提灯屋台は、豊作と風水害除けを祈願した、210日の前日の宮詣りや翌日の神幸祭の際に、300年ほど前から使われていたもので、文献への初出は享保6(1721)年です。

氏子一同が屋台を担いで谷地八幡宮等に参宮し、往復には笛や太鼓を奏でました。

当初は谷地8ヶ村から一台ずつ出されましたが次第に数が増え、踊り屋台も加わるようになり、盛大なものになりました。

しかし明治43(1910)年に町内に電線が張り巡らされてからは屋台の巡行が不可能となったので、行事は中止になりましたが、昭和38(1963)年に復活しました。

「紀の代 寿司本店」で夕食にしましたが、飲めないのが辛い所です。

19:30からは「ごらんじょう詣り」があり、20:20から「神輿渡御」が始まったので、寒河江(さがえ)市の温泉旅館まで走って、疲れた体を癒しました。



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2016年09月19日

湘南ドリームズ戦

2016年9月17日(土)  湘南ドリームズ戦

「坂戸市民総合運動公園」で「第12回坂戸市長旗関東還暦軟式野球大会」に出場し、10:30から「湘南ドリームズ」(神奈川県藤沢市)と戦いました。

連休の初日で高速道路の渋滞が予想されたので、前日に「埼玉の酔仙」さん宅に泊めていただきました。

8番センターで先発しました。

第1打席は2回表、ヒットエンドランのサインが出たので、内角低めの打ちにくい球に何とか喰らいついてバットを当てて、ボテボテの3塁ゴロを放ち、3塁走者を本塁に迎え入れて打点1を記録しました。

第2打席は、大きくリードされた4回表、センター前に落ちる「テキサスリーガー(Texas leaguer)」(テキサスヒット、ポテンヒット)を放ち、2塁走者を迎え入れ、またもや打点1を挙げました。

試合は5回コールドの3-12で敗れましたが、得点3のうち2打点を稼いだのは、打率をアップさせるとともに、得点圏に走者を置いた時のしぶとさを発揮できたので、喜ばしいことです。

恒例の参加賞として、鶏卵20個を戴きました。

試合後は、「林家舞楽」を鑑賞するために、圏央道や東北道、山形道、東北中央道を経由して、山形県へ向かいました。



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2016年09月04日

豊原から帰国

2016年8月28日(日)  豊原から帰国 

7:00の気温は8.6℃まで下がり、秋の訪れが迫ってきているようです。

朝散は、「樺太中学址」や「知事公舎址」まで足を延ばしました。

11:30チェックアウトなので、朝散の後に、ゆっくりと朝食を摂りました。

食後部屋でNHKTVの海外放送を見ていたら、「日本とサハリン 引き裂かれた親子」という7時のニュースの特集番組を放映していました。

樺太を観て回り、「樺太戦とサハリン捕虜の記」(丸山重著)などを読んだこともあり、特別の感慨を覚えました。

豊原13:40発、ヤクーツク航空R3 9949便で帰途に着き、13:50成田に帰着しました。

帰り便は、日本人観光客や、ハバロフスクでの3市対抗バレイボール戦を終えた兵庫県の女子高校生などがいて、ほぼ満席でした。

黒パンやサラダ、ハム、菓子、コーヒーの、ロシア製ランチボックスを昼食にしました。



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2016年09月03日

大泊

2016年8月27日(土)  大泊

6:00の気温は10.6℃と冷え込んできましたが、日中の日差しは未だに強烈です。

朝散は、豊原公園を南に突っ切って、「樺太神社址」と「護国神社址」を訪ねましたが、何も残っていません。

犬に散歩をさせている者は多いのですが、大きな犬なのに、対面歩行者への気配りは全くなく、こっちが立ち止まらされて、犬と散歩をさせている者を睨み付ける状態です。

「大泊(おおどまり)」は、今では「コルサコフ」とも呼ばれており、サハリンの南の玄関口で、人口は約3万3千人(2014年)あり、豊原、真岡に次ぐ、樺太第3の都市です。

大泊は樺太最大の不凍港であり、稚内と大泊・西能登呂岬間の距離は約42kmあり、「稚泊連絡船」が大正12(1923)年に就航しています。

1790年に「松浦藩交易所」が開かれて以降、日本とは関係の深い所です。

1905年日露戦争の時に建てられた「遠征軍上陸記念碑」は、天ガス工場の見える丘の上に、土台だけが「亜庭湾(あにわわん)」に向かって立っており、上部に載っていた碑は砲弾に折られたらしく、近くに転がっています.

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「歴史郷土博物館」や「北海道拓殖銀行大泊支店址」、「王子製紙大泊工場址」を見学しましたが、工場は大正3(1914)年に建設された、王子製紙最初の工場です。

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豊原に戻っての昼食では豚肉のシャシリクを、大泊を出た頃からワインを既に飲み始めていたので、ロシアの生ビで戴きました。

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冬季はスキー場にもなる「旭ヶ丘展望台」からは、豊原市街が一望のもとに眺められました。

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「サハリン州郷土博物館」は、日本統治時代の「樺太庁」の立派な建物を使用しています。

日ソ国境線にあった「天1号標石」が展示されていました。

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現在では屋内にある「自由市場」という朝鮮系の店が犇めき合う所で、「昆布入りのチョコレート」を、主に野球部仲間への土産に買いました。

現代的なシティショッピングモールでは、土産用に「塩入のチョコレート」を買い足し、紅白のクリミアワイン(各234ルーブル)や「腹面の柄が羆で、背面が樺太地図のTシャツ」を買いました。

ホテルでの夕食のメインディッシュは樺太鱒のソテ−でしたが、400ルーブルのアサヒスーパードライしか置いてないと言うので、飲むのは止めました。

22:00の気温は13.6℃でした。



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2016年09月02日

敷香、白浦、 落合、栄浜

2016年8月26日(金)  敷香、白浦、 落合、栄浜   

6:00の気温は15.3℃で、雨が強く降っていましたが、朝食の後頃には上がったので、食後にホテル周辺の街路を朝散しました。

自動車が横断歩道の手前でピタッと止まる点は、大いに評価すべきです。

敷香には、「オタスの杜」という先住民集落があります。

昭和初期に先住民指定居住地となり、「ウィルタ((Uilta)族」や「ニヴフ(Nivkh)族」、「ウリチ(Ul'chi)族」、「エヴェンキ(Evenki)族」、「ヤクート(Yakut)族」等の諸民族が集められました。

昭和5(1930)年7月には「オタス土人教育所」が建設され、昭和11(1936)年には「オタス神社」が建造されました。

先住民に対しては日本語教育等が行われましたが、アイヌ以外の先住民族には日本国籍は与えられませんでした。

「幌内(ポロナイ)川」河口にある「佐知(さち)」(「ヌージヌイ島」)は、日本時代にオタスの杜と同じく、先住民を住まわせて観光地にしていました。

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先住民は戦時中は日本軍に徴用され、ソ連軍にスパイと見做されて、戦争の犠牲になりました。

現在では先住民は、ライセンスなしで漁業を行うことが認められていますが、島は「ダーチャ」(菜園付き別荘)として使われています。

敷香には「横綱大鵬の銅像」が、生家のあった場所に、2014年に妻の出身地である秋田県人会によって、建立されています。

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オホーツク海を左手に眺めながら、樺太鉄道の線路と何度も交差しながら、南下を続けました。

「知取(しりとり)」(豊原から213km)の町は、1892年に「セルトラ」という名で始まり、「知取」を経て、今では「マカロフ」とも呼ばれています。

「マカロフ創建100周年記念碑」には、町の基礎を造った日本人と朝鮮人に敬意を表して、日韓露の3か国語で書かれています。

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ここは、日ソの停戦協定が、8月23日に締結された所で、「富士製紙」(王子製紙が吸収)知取工場がありました。

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駅前のスーパーで、クリミアワインを285ルーブルで買いました。

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「白浦(しらうら)」(豊原の北108km)は、今では「ブズモーリエ」とも呼ばれており、蟹の名産地として有名なので、駅周辺の露店でも売られています。

昼食では花咲蟹にあり付けたので、クリミアワインで美味しくいただきました。

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1940年に建立された「白浦神社」は海岸縁の小高い丘に遠望され、鳥居だけが丘の中腹に残っていました。

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「栄浜(さかえはま)」(豊原から約50km)は、今は「スタロドゥプスコエ」とも呼ばれ、、人口は約2千人(2013年)です。

海岸の砂浜では琥珀が採れることで有名で、私は当初あほらしと思ってたものの、最初に難なく大きいのを拾って仕舞ったことから闘争心が生じ嵌ってしまいましたが、ある女性の捕獲物の質量ともに圧倒されたので、打ちひしがれてしまいました。

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「落合(おちあい)」(豊原の北43q)は、今は「ドリンスク」とも呼ばれ、北緯47.3度に位置し、人口は約1万2千人(2014年)です。

「王子製紙落合工場」の跡が残っています。

豊原に戻り、樺太で唯一の日本食レストランで、松花堂弁当や抹茶ムースを戴きました。

22:00の気温は12.7℃で、いよいよ秋の訪れでしょうか。



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2016年09月01日

落石、気屯、敷香

2016年8月25(木)  落石、気屯、敷香

「落石」の人口は約1万人(2014年)で、北緯51度にあり、6:00の気温は18.5℃でした。

朝シャンの後、朝散に出掛けました。

戦勝記念碑や戦没者名簿銘板があり、この辺りが小高い丘にあることも分りました。

「アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ」(1860〜1904年)は1890年に来島し、3ヶ月滞在して流刑囚の実態を調査して、「サハリン島」(1895年)を著わしました。

元囚人の「ランズブルグ氏邸」が、1990年から「チェーホフ博物館」になっています。

浜辺を歩いて、囚人が掘ったトンネルを抜けた先からは、「ジョン・ケル岬」と灯台が見られました。

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浜辺には大量の海藻が打ち上げられていて、地元の人たちが肥料にするために、「ゴミ袋」にせっせと詰め込んでいました。

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落石からティモフスクに戻り、更に130km南下して、「気屯(けとん)」(豊原から361km)を目指しました。

途中、北緯50度線には、幅10m、総延長133kmに亘り、「日ソ国境線」が敷かれていました。

「天測境界標石」が4つあり、第3標石が、豊原の「州立博物館」に展示されています。

ソ連が「日ソ中立条約」を一方的に破棄して南樺太(日本領)に攻め入った「侵略記念碑」には、「ソ連軍は、古来のロシアの地である南サハリンを解放した」と刻まれています。

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この周辺は日ソの激戦地だったので、平成2(1990)年から遺骨収集がなされ、いくつもの慰霊碑が建てられています。

「日ソ平和友好の碑」は日本の遺族会の建てたもので、両国語で「尊い命は静かに眠れ 平和を願い あなたの死を心に刻む」とあります。

「気屯(けとん)」は今は「スミルヌイフ」とも呼ばれてますが、北緯49.75度にあり、国境からは南へ20km、豊原からは北へ361q、「敷香」(ポロナイスクとも)の北73qにあり、人口は約7千人 (2014年)です。

気屯では農家のゲストハウスを訪問し、家庭料理を御馳走になりました。

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気屯駅は日本時代の最北端の駅(「古屯(ことん)駅」(ポペジとも)は軍事路線駅)ですが、丁度古屯から気屯行きの1両のみの客車列車が入構して来ました。

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車掌の女性が美人なので、列車をもう少し綺麗にしてはどうかと思うのですが、言いすぎでしょうか?

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「敷香(しすか)」(豊原の北288km)は気屯の南73kmにあり、、北緯49.2度にあります。

今は「ポロナイスク」(アイヌ語の「大きな川」の意)とも呼ばれていて、人口は約1万5千人(2014年)です。

一人部屋の確保が不安とか、ソーラーなので湯が出るかどうか不安、とか言われていましたが、しっかりしたホテルで安心しました。

ホテルのレストランでは、地元民のお別れパーティや歌手によるライブが行われていたので、私も吉田山麓にあったGOGO喫茶「Cat's eye」を思い出して、一踊りしました。

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20:00の気温は、17.9℃でした。



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2016年08月31日

ティモフスク、 落石

2016年8月24日(水)  ティモフスク、 落石

6:30の気温は12.3℃と低く、雨が降っているので、朝散は出来ません。

ホテルの朝食は、ビュッフェスタイルの場合を除いて、簡単なものが多いです。

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博物館等には何処にでも展示されているヒグマがホテルにも置かれていたので、襲われている雰囲気の写真を一枚撮ってもらいました。

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「オハ(Oxa)」は、1923年の石油生産の開始と同時に始まりましたが、人口は約2万人強(2014年)あり、半数程度は石油生産業務に従事していると言われています。

サハリン州での石油・天ガス生産は、オホーツク海の海底油田へと移行しており、陸上での生産は殆ど行われていないようです。

先ずは、ノグリキまで引き返し、更に南下して「ティモフスク」を目指しました。

ノグリキまでの途中にある売店では、昨晩飲んだビールが80ルーブルで売られてましたから、ホテル価格としては、まあまあ妥当でしょう。

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「ティモフスク」(豊原の北491q)は、ノグリキの南約130km、日ソ国境線(北緯50度)の北約100kmにあり、北樺太の入口に当たる町で、1890年代に流刑地として始まりました。

ティモフスク駅の電光掲示板は、21℃を表示しています。

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ここからは西へ57km山中(峠の標高は約400m)を走って、間宮海峡に面した、西海岸の中心都市である「アレクサンドロフスク・サハリンスキー」に到りました。

「樺太・千島交換条約」(1875年)以前の日本名は「落石(おっちし)」で、南樺太が日本領時代には、「亜港(あこう)」と呼ばれていたこともあります。

ホテルのレセプションが4階にありエレヴェィターもないので、旅荷物を担ぎ上げるのが大変です。

夕食には、昆布の入った「極東スープ」や「ロールキャベツ」が出たので、ロシアビール(100ルーブル、5.4%)で戴きました。

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ロシアではレストランへの酒類の持ち込みは禁止ですが、ビールもホテルのレストランには置いてなく、近くの店での購入品なので、これ幸いに、ノグリキのレストランで昨日購入したクリミアワイン(600ルーブル、10.5〜12.5%)も戴きました。

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夕食の最中に停電になったので、懐中電灯が大活躍しました。

シャワーは懐中電灯の明かりが頼りですが、湯温調節が難しくて、水になったり熱湯になったりしたので、大いに苦労しました。

夜シャンは諦めて、朝シャンに回しました。

22:00の気温は、16.1℃でした。



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2016年08月30日

ノグリキ オハ 

2016年8月23日(火)  ノグリキ オハ 

寝ているうちに、北緯50度の日ソ国境線を越えて、北樺太へ入っていました。

窓外のツンドラ地帯の野原や樹林帯を見ながらボックスブレファスを食べ、洗顔と歯磨きを終えると、7:42に「ティモフスク駅」(豊原から491km)に着きました。

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木材の集散地に多くの乗客が降りた駅で写真をバチバチ撮っていたら、駅では派手に取り捲らない様にとの事前の注意を受けていたのを思い出しましたが、結果的には問題はありませんでした。

サハリン鉄道の終着駅「ノグリキ」(豊原から北へ613q)には10:00過ぎに着きましたが、北緯51.8度にあり、樺太島東北部のオホーツク海に面した町です。

列車は613kmを、停車時間を除くと11時間で走ったので、平均時速は55.7kmになります。

ノグリキの人口は約1万人ですが、この地方には、古アジア系「ニヴフ(Nivkh)族」(約900人)やツングース系「ウィルタ(Uilta)族」(約250人)等の、原住の少数民族が居住しています。

今では、石油・天然ガス開発の中心地として発展しています。

街には1954〜58年ごろに建造された木造の集合住宅が並んでいますが、政府が少数民族の為に建設したものだそうです。

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「北方民族博物館」では、ニヴフ族やウィルタ族に関する展示を見学しました。

ニブフ族の男が狩猟から戻ってこなかった時には熊になったと考えられていたので、森で子熊を捕えると成獣になるまで飼育し、成獣になると神に返すために「熊祭り」を執り行いました。

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「熊祭り」は1982年頃に法律が制定されて、中止に追い込まれたようです。

成獣に達した熊に餌をやるための木製の食器も展示されていました。

「フォークロア・ショウ」ではニヴフ族の歌と踊りが披露され、最後には我々も参加して一緒に踊りました。

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ニヴフ語による歌が老人女性によって歌われましたが、言語は消滅の方向にあるようです。

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ノグリキでの昼食では、牛肉のハンバーグをロシアビール(100ルーブル)で戴きました。

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ノグリキから更に北へ230kmにある「オハ(Oxa)」(豊原から北へ850q、ツングース系「エヴェンキ族」の言葉で、「悪い水」の意)へ、未舗装のがたがた道を移動しました。

小川にも「悪い水」が流れていて、黒い石油が湧いている様がよく分ります。

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「郷土史博物館オハ館」では、日本領事館にあった鐘や、少数民族に関する展示を観ました。

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ホテルの夕食では、魚のサラダキノコスープを、レストランにはビールがないので、部屋の冷蔵庫に入っていたロシアビール(95ルーブル)2本を持ってきて戴きました。

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オハは北緯53度にあるので、流石に空気は肌寒くて一枚余計に羽織りましたが、22:00の気温は14.3℃まで下がりました。



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2016年08月29日

真岡

2016年8月22日(月)  真岡 

6:30の気温は18℃ですから寒いというほどではなく、ずーっと一日、パラパラと降ったり止んだりの一日でした。

朝散は、ホテルの真ん前にある「豊原公園」を散歩しましたが、「王子ケ池」の中の島には、最近掘り出された石碑(昭和11年作製)が立てられていました。

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豊原から西へ93qにある、樺太西海岸の不凍港の町「真岡(もうか)」(「ホルムスク」とも)に向いました。

途中、「熊笹峠」(標高490m)を越えました。

1945年8月9日、日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本領である「南樺太」(北緯50度以南)を侵略したソ連軍は、8月20日に真岡に上陸し、真岡侵略後は豊原を目指して進軍しました。

それに対抗する日本軍との間に、8月20日から23日にかけて、熊笹峠を舞台に激戦が繰り広げられました。

日本の方向に向いた砲台を載せたソ連の戦勝記念碑が建てられた丘の付近には、真岡に向かって建てられた日本軍の「トーチカ(Tochka)」が、残っています。

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真岡は今は「ホルムスク」(「丘のある町」の意)と呼ばれ、人口は約3万人程で、北緯47度にある樺太第2の町ですが、そもそもはアイヌ語で「ハマナスの咲く丘」を意味する「モウカ}と呼ばれていました。

「王子製紙旧真岡工場」は、「ホルムスク製紙」としてソ連が継続して利用していましたが、今では廃墟となってます。

「市立博物館」では、アイヌに関する展示等を観ました。

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嘗てアイヌ民族は樺太南部に広く居住していましたが、その後多くは北海道へ移住させられました。

フェリーターミナルのカフェでの昼食では、ジャガイモの入った「ピロシキ(Piroshki)」や鶏の「シャシリク(串刺し)」、スープを戴きました。

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「夕日ケ丘」からは、「間宮林蔵」(1755〜1844)の名を冠した「間宮海峡」や、シベリヤ鉄道から連絡船で運ばれて来た列車の「台車交換場」が眺められます。

「レーニン広場」があり、樺太では嫌われずに、以降訪れた町の随所にレーニン像が残されていましたが、ここにも立っています。

「日ソ中立条約」を破棄してソ連軍が北樺太から侵入して来た時に、電話交換手9名が青酸カリを服毒して集団自決した「真岡郵便局」の跡地には、新しい郵便局が建てられていました。

豊原まで戻ったあと更に東南に向かい、オホーツク海の「海跡湖」である「富内(トゥナイチャ)湖」を訪れましたが、湖畔の町オホーツコエでは、蟹や海老が露店売りされていました

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豊原駅前にあるレーニン広場では、ロシア国旗制定記念日のショウを見て風船をもらい、駅前広場では、「D51-22蒸気機関車」を観ました。

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夕食では、オヒョウのグリル等を、ロシアビールの黒・茶生(各200ルーブル=約400円)で戴きました。

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VIPルームで休憩した後、22:30発、北樺太「ノグリキ」(613q北方)行きの「サハリン鉄道」夜行寝台列車に乗り込みました。

コンパートメントは左右に2段寝台がありますが、1人で一室を希望したので、荷物も下段に置けました。

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よく眠れた訳ではありませんが、翌朝起きた時には、そこそこ眠ったと見えて、気分はすっきりとはしていました。



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2016年08月28日

豊原 

2016年8月21日(日)  豊原 

成田発16:30「ヤクーチヤ航空(Yakutia Airlines)」R3 9950便で、樺太の「豊原(とよはら)」の「大沢飛行場」には、20:30(日本との時差は、今年3月以降に1時間から2時間に変更)に着きました。

ヤクーチヤ航空はロシア連邦サハ共和国のヤクーツクに本拠地を置き、今年5月から新規に就航しています。

機材は、「スホーイ・スーパージェット100-95」です。

司馬遼太郎「街道をゆく」で知った「オホーツク文化」の源流に触れたくて、「樺太」を訪ねます。

「樺太」には、原住民である、古アジア系「ニヴフ(Nivkh)族」や「ツングース(Tungus)」系「ウィルタ(Uilta)族」等の少数民族が居住しています。

「豊原」は北緯46.6度にあり、今は「ユジノ・サハリンスク」(南サハリンの町の意)と呼ばれていて、人口約20万人、ロシア共和国がサハリン州の州都にしています。

人口のうち約2万人は、戦前日本統治下にあった朝鮮半島から移住した朝鮮人が、約2万人は戦後北朝鮮から移住した朝鮮人が占めています。

約100人の定員に対して、乗客は20人程度で、ガラガラです。

機内食は、サーモンエスカベッシュやパストラミチキンの入ったボックスを、酒類なしで戴きました。

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豊原に降り立つと、涼しく心地よい気温です。

経度は東京地方と同程度なのに時差が2時間もあるので、薄暮というところですが、時刻は急に夜になった感じがします。

23:00の気温は、19.7℃でした。



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